姉との格差社会の現実にしばしの間さらされた九連は、無意識に足元に転がる紙くずの一つを拾い上げた。 本当に無意識に、無意識だったのだが。 「うん? なにか書いてあるなこれ」 「本当じゃ。なになに……」 彼の跡を追うようにかごめも紙くずを拾い上げた。 くしゃくしゃに丸められたそれをゆっくりと開いていき、現れたのはペンで書かれた文章のように見える。 手紙だろうか、と九連がその文字を読み始め 「……こりゃ、酷いな」 と、思わず嘆息をついた瞬間。 美凛が地獄へと派遣された天使が羽を無理矢理もがれる時のような、痛々しい叫び声を上げた。 「いやああああぁ! 見ないで見ないで見ないで見ないで見ないで見ないで見ないで見ないで見ないで見ないで見ないで見ないで見ないで見ないで見ないで見ないで!」 「…………」 九連は驚いて思わず紙を落としてしまい、隠れていた前方の視界――――以前見たことがあるような、というかついさっき廊下で見た気がする世界的な有名な絵画の一つ、ムンクの叫びのような顔で金切声を上げる美凛を目撃した。 隣の梢が、ビビって30センチほど離れつつその光景を目を点にして見つめている。 一体全体どうしたというのか。 「落ち着いて美凛ちゃん! もしかして、これを書いたのってむぐぐぐ」 「言ってはならん!」 心ないことを言おうとした我が弟の口を後ろからかごめが抑えつけた。 彼女もまた、紙に書いてあった文字を読んだので、美凛が叫んだ理由はなんとなくわかるし、何より―――― 「……黒歴史というものにはの、触れておかぬのが鉄則なのじゃ」 「か、かごねえ……?」 かごめ自信が体験したことのある過去でもあったからだ。 ◯ 先程叫んで体力をすべて使ってしまったのだろうか。 美凛は机の横の椅子に力なく座り、うつむいたまま一人語り始めた。 「私は中学生の頃、文学少女だったのです。その頃の私は、この世の生きとし生けるもの全てを文字という一つの魔法によって描写出来ると思い込み、放課後は毎日毎日たった一人の文芸部員として、寂れた教室の一角でデカルトの言葉を頭に思い浮かべつつ、ただひたすらに物を書いていたのです。わかりますでしょうか、梢女史。あなたはまだ私と同じクラスになって半年ほどの仲ですけれど」 「いや、ごめん美凛ちゃん。わかんない」 ぶつぶつと、それでもついさっきまでの無言の状態からは予想も出来ない語彙が彼女の口から飛び出すので、梢は戸惑いつつ答える。 と、いうか。 曇の無くなった彼女の心から、とんでも無い量の情報が自分の頭に飛び込んでくるからだろうか。 まるで、人の多い都会に出た時のような気分で、頭が痛い。 頭痛が、痛い、と言ってしまいそうになるぐらいに痛いのだ。 恐ろしいことである。 いや、ホントに。 「高校に入学すると同時に、私は決めました。過去を捨ててしまおうと、この暗黒の三年間を全てて放り投げて宙ぶらりんになってしまおうと決めたのです。仮にも名門唐玉家の長女である私は、とにもかくにも青春という唯一無二な幻想に憧れていたのです。それからは早いものでした。あっという間に彼氏が出来て、あっという間に私の部屋へかむかむおんです」 「あ、美凛ちゃん、それアタシのお気に入りの言葉なのに〜」 「そして、私はそこで大きな過ちを犯してしまったのです。一言で言えば自業自得。言わなければ黒歴史のモーレツ暴露とでもいいましょうか。とにもかくにも、私が彼氏である愛しき有明明(ありあけ あきら)のためにお茶を入れようと、給水場に行っている間に、彼は見てしまったのです。全てを」 梢の言葉をためらいなくスルーして、彼女は頭を抱えて苦悩の表情を見せる。 とりあえず、この美貌なら彼氏が出来ないわけがないよな、と九連は頷いた。 その一方で、梢はクラスメイトの思わぬ暴露に今日が驚愕した。 「ちょ、美凛ちゃんまさかミンミンと出来てたのー!?」 「もちろんよ梢女史。そして彼はそのあだ名を嫌っているのをご存知かしら? とりあえずやめて頂けると嬉しいかもかもー」 とりあえず、そのコロコロ変わる語尾、語勢、その他諸々を今すぐ止めて欲しいと梢は思いたかったが、彼女の頭の中に流れてくる青春色の情報がそれを邪魔する。 「もしかして、ミンミンに昔書いた小説みたいなのを読まれたから、暗くなっちゃったの?」 「御名答。でもどこぞの製菓会社の大福は出してあげないわ。嘘だけど」 パチンと指を慣らすと、どこにいたのか冥土さんがやって来た。 「美凛様。どうなされましたか」 「大福3つ、今すぐお願いしますわ」 「かしこまりました」 丁寧なお辞儀をして、冥土さんは扉の向こうに消えた。 九連はその方向を唖然と見つめながら、美凛に尋ねる。 「いたんだ……てか、美凛ちゃん。どうして冥土さんがいるのにお茶を自分で入れに行ったの? 任せればよかったじゃん」 「冴えない顔して当たり前なことを言わないでくださいな。好きな男には自らがお茶を入れるのが礼儀というもの。あなた鈍感の塊でしょう? というか誰?」 「は?」 誰、と言われて九連は怪訝な表情をあらわにする。 「さっきまでこの部屋で一緒に勉強してた――――しようとしてたじゃん。忘れちゃったの?」 「な……そ、そんなこと、意中の男でない男を私が自らの部屋に招き入れるなど!? ありえない!」 一人で限りなくテンションがマイナスゲージとプラスゲージで伸びまくりの美凛ちゃんの様子に困惑する九連。 そんな彼の肩を叩きながら、かごめが慈愛の表情を顔中に浮かべて言った。 「おおよそ、彼氏に振られた怨念をこれらの紙くずに握り入れてしまったんじゃろうな。そしてそれを一箇所に詰め込んでしまったのがいけなかった。それで塵喰が住み着いてしまったのかもしれん」 「姉さん、ということは…‥」 「うむ。恐らくこの子は塵食に取り憑かれていたんじゃろ。記憶が無いのも無理は無い」 言いながら、かごめは椅子でうなだれる美凛の側に行き、頭を軽く撫でてやった。 「お前さんの気持ちはよくよくわかるぞい。わしもな、小さい頃はアニメにハマっておぞましい事をやっておったもんじゃ」 「小さい頃って、それもせいぜい幼稚園のことでしょう?」 気持ちよさそうに頭をなでられつつも、美凛の言葉は反抗的だ。 「残念ながら、そなたと同じ中学生の時までやっておった。なぁに、魔法陣グルグルというものを現実と信じ込んでおったまでじゃ」 言いながらケタケタと笑うかごめだったが、九連は彼女の言葉で嫌な過去を思い出してしまう。 (そうだ、姉さんが陣を描くのが得意なのは……) 字は下手だが、神職の実力派一級品であるかごめの実力を育てたのは、懐かしのアニメのおかげである。 彼女は小さい頃から中学生になるまでこの作品にハマり続け、その間に完璧な陣の作成をマスターしていたのだった。 好きこそものの上手なれ、を地で行っている天才肌巫女。 それが葛餅かごめなのだ。 「さて、おぬしに取り憑いていた塵食はもうこのくずかごの中じゃて、安心しなされ」 「……もしかしてあなたが助けてくださったのですか、かごめ女史」 「もちろんじゃ。ささ、部屋を片付けてそなたの黒歴史ともおさばらしようではないかの」 未だに部屋中に広がる紙くずを拾いながら、かごめは笑う。 いつのまにやら”かごめ女史”と呼ばれていることに突っ込まない辺りは、流石長女の貫禄といったところか。 そんな彼女に、美凛は気付いたように言った。 「あ、お礼をさせて頂きたい。記憶が無いのでよくわかりませんが、助けていただいたことにかわりなさそうなので」 「おぉ、そうかそうか」 ここで「お礼などいらんいらん」と言っていたなら、かごめは女神にすらなれたかもしれない。 しかし、彼女は実は堕ちていた。 「とりあえず……ごにょごにょ」 「わかりました。唐玉財閥は今日からあなた方のスポンサーになりますので、どうぞよろしく」 いいのかよ、と九連と梢は突っ込みたくて仕方が無かったのだった。