駅近くでほんのり厳選高級豆の香りを匂わせる店がある。 クリプトンコーヒーという、この町ではちょいと名のしれたコーヒー専門喫茶店で、唐玉美凛は今日のおすすめブレンドを勧められるがままに飲んでいた。 最初はちょっぴり悪徳商法の香りがしたものの、コーヒーの香りはそれはもう素晴らしい南米ムードぷんぷんだったので、彼女は特に気にすることも無くちょびちょびとコーヒーグラスからストローですすっているのだ。 「……おいしい」 昨日電話をしてきた梢女史は何を考えてこのような穴場スポット自分に教えてくれたのだろうか。 頭をよぎる疑問の回数は、百を超えた辺りで数えるのをやめた。 無意味だと思ったからだ。 いや、そもそも自分がこの世にいること自体が無意味――――そう、無意味なのだ。 「ふぅ」 ストローから薄い桜色の唇を離して考える。 自分の心はいつも泣いているが、それも無意味だ。 恐らく、涙腺が乾いていなければ今頃この町もアトランティスとなっているだろう。 感慨深く、窓側の席からせわしない世の中を見渡す。 夏休みに入ったというのに、大通りのを行き交う車は今日も絶えることがない。 なぜだろう。 無意味でないから――――なのだろうか。 「ふぅ」 もう一度、ゆっくりとため息をついた。 それは、窓の向こう側で梢女史と彼女の言っていた大学生の兄が大声で罵りあいながらこちらに向かっているのを確認したからではない。 ただ、なんとなく無意味を感じたからである。 ◯ 「ハァ、ハァ」 「ハァ、ハァ」 二人揃って肩を上下して荒い呼吸を繰り返しているのが、兄妹という証ということになるのであればそうなのだろう。 ここに来るまでに、梢は梢なりの家庭教師のイメージ(理想)を九連に押し付け、九連は九連なりの家庭教師のイメージ(現実)で抗ってきた。 それだけなのだが、それだけの行為でここまで疲れるのものだろうか。 九連は、だらしなく舌を出して、今日のために持ってきたのであろう下敷きで自らをあおる我が妹に声をかけた。 「……梢、何を頼むんだ」 「……アイスコーヒーでいいよ。あ、ほどほどにミルクを入れてくだしゃい」 崩れ落ちた語尾に自分で悪態をついてから、梢は振り返る。 もちろん、先に店に来ているであろう美凛ちゃんを捜すためだ。 いつもつけている水色カチューシャを目印に、落ち着いた雰囲気の店内を見回して―――― 「あっ、いたいた」 窓際に、かすかに揺れる水色カチューシャを発見。 「みりんちゃー」 早速声をかけようとしたところで、梢は固まってしまった。 「え」 「ん? どうした梢」 妹の異変に気付いた九連は、2人分のアイスコーヒーが乗ったプレートを店員から受け取りながら尋ねる。 「ほひー」 「は?」 口を文字通り真四角に固定させて、妹はほひーと言った。 それはどう意味なのだろうか。 考えながら、固まる視線の先を追うと、そこにはやはり水色カチューシャが揺れていて―――― 「おい梢。あれが美凛ちゃんか?」 さすがに男子大学生、ほひーとは言わなかったが、九連は梢に焦燥を感じつつ訊いた。 梢は、首を動かさずに答える。 「うん。あの子」 「なあ、俺やっぱ帰っていい?」 「それはダメだよくれにい。アタシは帰るけど」 言って、冗談では無いとばかりに体を動かそうとする梢の首根っこを九連は慌ててつかむ。 「待て待て。クラスメイトを裏切るとか有り得ないぞ。それ以前に、言い出しっぺがやーめたの法則は小学生限定のはずじゃん」 一つでは足りないだろうと、苦し紛れにもう一つ理由付け加えて彼女を説得する。 はぁ、と小さなため息をついてから、梢は答えた。 「冗談だよ。ほどほどにびっくりしただけだし……」 「おい、それは俺もだけどさ。ま、ここまで来たら運命共同体じゃん」 「そだね」 二人は何故か無言で固い握手をしてから、そのまま視線を窓側の席に戻す。 二人の視線の先では、全身ブルージャージの細身の白色美人が、ゆるやかに足を組んで、ゆったりとストローでコーヒーを吸っていたのだった。