かごめの大きなため息が、マイクを通して部屋の外にいる九連(くれん)にもよく聞こえてくる。 それから間を置かず、会場として設置された小さな会議室から次々と人が出て行くのを横目に彼は言った。 「姉さん。またダメだったのかよ」 「う、うるさい九連! 働きもせずただ立ちっぱなしのお前に言われとうないわ!」 長くしなやかな黒髪をなびかせ、かごめは白い顔を朱に染めて言い返す。 スーツ姿なのが普段の彼女の服装と比べてなんだか珍妙に感じられてしまい、九連は苦笑交じりに首をすくめた。 「いやいや、こうしてか弱く美しい姉さんのボディーガードとしてここに立っているわけじゃん。大体、お金を払って働いている警備員のおじさまだって基本的に立ちっぱなしでしょ。つまり、俺も立派に働いているってわけじゃん」 「うるさいうるさいうるさい! 私はもういやじゃ! どうして誰も信用してくれないのじゃぁ!」 弟の十分道理の通った言い分に何も言い返せず、かごめはついに九連に泣きついてしまった。 自分より背の低い姉がぎゅむと抱きつくことによって、九連はかごめ二つの膨らみの感触を味わうことになる。 「よしよし」 頭をなでて、ちょっと大きくなったじゃん、と我が姉の成長を心の中で実感しつつ、彼は言う。 「ま、今度はいつもの巫女服姿で『いらっしゃいませご主人さま〜』とかやってみればいいんじゃね?」 神職者一家の葛餅(くずもち)家長男は、長女の現代的な活用法を模索するために深夜アニメをちょっとかじっているようなのだが、なんだか少し違う方向に進んでしまっているのかもしれない。 そんな間違った方向性を純真なかごめが受け入れるはずもなく。 「いやじゃ! 私はそんなこと絶対にやりとうない! いやじゃいやじゃいやじゃ!!」 やっぱり、九連に成長し続ける胸を押し付けるのだった。 ○ そういうわけで、すっからかんになった会場の後片付けが始まった。 あちらこちらに散らばる、説明用に配った小さなチラシを拾いながらかごめは嘆く。 「現代人のストレスは、本当に異常じゃな。あの短い時間でもう一枚一枚に怨念がこもっておる」 「いや、その原因は姉さんにあると思うんだけど……」 鳥の巣のように無造作に広がる髪形を右手で整えながら、九連は左手でチラシを手にとって見てみる。 チラシの制作はかごめがすべて一人でやっているのだが、見ていて彼は吐き気をもよおした。 「うげっ……何この継承文字。毛虫がうじゃうじゃ紙にくっついてるみたいじゃん。ホント相変わらず字は汚いのね……」 九連は大学の夏休み中に家業を手伝いに来ている身であり、今日初めて久しぶりに姉と顔を合わせたばかりなのである。 外見は多少年相応に大人っぽくなったとは思ったが、やはり中身は何にも変わらないようで、不安と安心が一度に感じられた。 姉さんに字の書き方を教えよう。 そう、心に誓う。 ただ、このくらいのチラシならパソコンで打ったほうが早いだろうとも思い、聞いてみることにした。 「姉さん。やっぱりまだパソコンは買ってないの?」 「当たり前じゃ。そんなもの必要ない」 本当に当たり前のように、紙を拾いながら言い放つかごめ。 そんな姉の様子に辟易しながらも、九連は説得を始める。 「いや、そろそろ必要な時代に突入したと思うんだよね。だって、塵喰退治を受け付けるのにホームページとかあったほうがいいじゃん」 そもそも、21世紀にもなって一家に一台のパソコンも存在せず、携帯電話すら持っていない姉を持つなどとは彼は夢にも思わなかったのだが。 「塵喰退治は草の根作戦で行っておる。それに、そんなものが無くても仕事は増えるばかりじゃ。本当に現代人はストレスが多すぎる!」 言いながら一人憤慨するかごめを見つつ、姉さんだってストレス満載の現代人じゃん、と九連は頭を抱えるのだった。 ○ すっかり拾い終えたチラシの束を、先ほどかごめが紹介していたくずかごの中に放り込みながら九連は言う。 「俺、これいいアイデアだと思うよ。確かにくずかごに陣を書いてしまえば、そこに塵喰は生まれないだろうからね」 「そうとも限らんぞ」 何も書いてないほうのくずかごを下に重ねながら、かごめは顔をしかめて否定した。 「それ、筆にペンキを付けて書いておるんだがの、やっぱりいつかは劣化して壊れてしまうかもしれん」 真面目な顔をする姉の言葉に、ついつい九連は笑ってしまう。 「そりゃ100年も使ってればいつかは陣だって壊れちゃうでしょ。 いや、姉さんの書いた陣ならそう簡単には壊れないか」 「おだてても何もでんぞ」 ぷんぷんと音が出そうな歩き方で会議室を出て行く姉を九連は追いかける。 しっかりと戸締りを確認して、電気を消して、こことはおさらばだ。 「おだててなんてないじゃん。姉さんが凄いのはみんな知ってるんだから」 字は汚いかごめだが、それの代わりに陣を書く天才的と言えるまでの能力を持っていた。 彼女の作り出す呪札、陣には、そろいもそろって強大な力が備わっているのである。 「俺にはどうにも追いつけない素晴らしい才能だと思うよ。ま、だからこうして大学生やってんだけどね」 普通であれば、九連が葛餅家の長男としてかごめのように働かなければいけないのだが、かごめの持つ力の強大さはそれを転覆させてしまった。 ただ、九連はそれ自体に対して特になんとも思っていない。 適材適所。 彼はそんな言葉が好きな人間であった。 だから 「ほら、そんな顔して俺のこと見つめないで。近親相姦を神職がやったらそれこそ宇宙追放じゃ済まないじゃん」 「うぅ……九連。今日はお前がおごるのじゃ」 なぜか涙目になりながら、かごめは顔を再び朱色に染めていた。 「いや、なんでそうなる」 「いいのじゃ!」 やっぱり最後は九連に抱きついて、かごめは首を振り続けたのである。 今年の夏が地獄に満ち溢れてしまうということを、まだ彼らは知るよしもなかった。