ブブゼラ吹きの少年少女

 騒がしい駅の中から、はじき出されるピンボールの玉のように僕は飛び出した。
 やれやれ。初夏のしらけた蜃気楼が、遠くでおぼろげにおどけている。

 ――――なんて、情調的な一節が俺に似合うはずがないので(そもそも俺は『僕』ではないから)そそくさと汚れた階段を降りて、自販機でボルビックを買ってまず飲んだ。ぐびぐびと、のどごし爽やかスカッとスッキリボルビック。まるで宣伝文句になりそうな具合だが、そのぐらいおいしい.
 水というのは、つくづく動物にとって不可欠なものだと思う。
「おっと」
 俺は斜め四十五度傾けたボトルを慌てて降ろしてフタをしめる。危ない危ない。いつもこの調子で一本まるまる飲み干してしまうのだから、気をつけなければ。また買い直すなんてことはやりたくない。
 俺はそっと口をぬぐい、肩に下げる小さなショルダーバッグにボルビックを放り込む前に、そっと汗をかいたボトルの表面を服の袖でふいてやる。文庫本にシミを作られてはたまったものではないからだ。
 それにしても、ちょっとこいつ汗かきすぎだな。
「よし、こんなもんか」 
 ジッパーを閉めて、俺は赤坂ロフトへの道を歩き出す。
 ちなみに、赤坂ロフトは赤坂には無い。
 実際の赤坂はもう少し東にあるのだが、赤坂ロフトの持ち主がどうしても赤坂を名乗りたいらしいので、赤坂ロフトという名前になった。なんとも図々しい家主様であるが、そこを自由に使わせてもらっている俺を含めた大学生諸君の方が数倍図々しいのでその点については閉口しておくのが正解だ。
 家主様の名前は明日田(あすだ)メルという、ちょっと不思議な名前で、みんなからはメルルちゃんと呼ばれている。この名前、ちゃんと由来があるそうでオリンポス十二神の商業の女神『メルクリウス』の頭二文字を頂戴したというのを友人、二見裕二(ふたみゆうじ)に聞いた。
 凄くどうでもいいが、こいつの下の名前の由来は織田裕二だと本人が豪語していたので、そうらしい。
 しかし、始まりと終わりが漢数字のニで妙に格好悪く見えてしまっていることに彼は全く気づいていない。
 俺は何も言わず、魔女の宅急便に出てくるトンボのようなヤセメガネ二見の話を終始苦笑いを浮かべながら聞いてやった。
 あの時は季節が冬だったから、そういう余裕が俺にもあったのだろう。
 だが、この暑さの中でそんなことを言われたら、きっと俺は怒り出すに違いない。
 あいつ、今日は来てるのだろうか。

 セミの鳴き声が近づいて来たり、遠ざかったりを繰返す。
 電車の中よりは全然マシだが、それでも日差しは暑かった。
 ジリジリと照りつける太陽が、まるで笑顔のメルルちゃんの様に見える。
 と、思ったら、赤坂ロフトが前方に見えてきた。
 しかもなんと、丁度屋上でメルルちゃんがサングラスをかけてスタバのカフェオレをチューチューと吸っているではないか。なんたる奇遇。俺は心が踊るのを押さえつけられなかった。
 ココロオドル、ポンポコリン。
 俺は足早に赤坂ロフトに近づいた。
 
 ブーブーブーブー

 三階建てのスクエア。
 いわゆる四角いコンクリートの塊の手前までやって来た俺を出迎えたのは、トンデモない騒音だった。

 ブーブーブーブー

 とんでもなくうるさい(五月蝿い)音の波が、鉄のカーテンのごとくこちらに向かって放たれている。
 一体何の音だ。イキナリ何のドッキリだ、これは。
 俺は耳を塞ぎながら、慌てて赤坂ロフトの建物内に入った。
 一階はロビーになっていて、北欧風の家具がところどころに設置されるインテリアだ。
 まだ朝早いからだろうか。あまり人はいない。そしてとても涼しい。冷房がガンガンに効いている。
 俺は二見の姿を探し、すぐ見つけた。
 二見はローリング・ストーンズのロゴマークがデカデカとプリントされた黒いTシャツ着て、ノートパソコンの前で何かを打ち込んでいた。俺より一つ年下のこの男は理系で、俺は文系である。俺がパソコンの画面を覗き込むと、気付いたのかメガネをくいっと持ち上げて俺におはようございますと言った。俺はおうとだけ言って、何をやっているのか尋ねた。
「アプリを作ってるんです」
「アプリ?」
「はい」
 画面を見ると、そこには細長い筒が表示されていた。
 俺はそれを指差して言う。
「これは?」
「ブブゼラです」
「ブブゼラ?」
「はい。今ワールドカップで大人気のあれですよ。めちゃくちゃうるさい大人のオモチャです」
 二見はケラケラと軽い笑いを間に挟んで、外がうるさかったでしょうと言った。
 俺はとてもうるさかったと仰々しくうなずいた。
「あれは実験なんです。ブブゼラの音を打ち消すための」
「打ち消す?」
「はい。おんなじ周波数の音をこれから出して」
 言いながら二見が取り出したのは、さっきのOLさんが持っていたスマートフォンだった。
「音を打ち消すんですよ。面白いでしょ?」
「へぇ。面白そうだな」
 俺には正直何が面白いのかわからなかったが、とりあえず言葉を繰り返す。
 どうにも話が見えてこないが、俺は簡単な推測を立てる。
 実はこの赤坂ロフト。メルルちゃんが学生を集めているのにはわけがある。
 メルルちゃんは、かわいい見かけによらずベンチャー企業の社長さんで、こういう簡単なソフトウエアを開発をするアルバイト要員として学生を使っていたりするのだ。メルルちゃんは、その時その時の流行りに合わせて商売をする。そして、メルルちゃんの命令はこの赤坂ロフト内ではヒットラーの命令より絶対で、大体ビジネスチャンスを逃さずにソフトウエアは売れる。能力のある奴は、そのままここの正社員に起用するらしいのだが、俺は会社の経営について学んだことが無いのでよくわからない。
 俺にとってはわからないことだらけだが、とりあえず赤坂ロフトは儲かっているそうだ。
 だから、ここの施設も結構立派なのである。
「あと、これをブブゼラの楽器にしちゃうアプリも作りましたよ。日本代表のメンバー全員分が吹いてるグラフィックを用意して販売してます。で、これがよく売れるんですよね、面白いぐらいに。ただ画面を押して音を鳴らすだけのアプリなのに、それだけで儲かっちゃう。メルルちゃんの先見性には本当に頭が下がります」
「それって、いいのか?」
「何がです?」
 俺は肖像権の問題について文句を言いたくなったが、早くメルルちゃんに会いたいのでやめた。
「いや、やっぱなんでもない」
「そうですか。ところで先輩、今日はまた読書を?」
「あぁ。あとメルルちゃんに会いに来た」
 言って、俺がつややかな組み木の階段に足をかけたところで、二見がうらやましそうに言った。
「いいですよね、先輩。メルルちゃんと仲良しさんで」
「まあな、いとこだし」
「えっ!?」
 途端、後から派手な音が聞こえてきたが、俺は気にせず階段をのぼる。
 そういえば、ブブゼラか。
 テレビでサッカー中継を見たときは、確かにうるさかった気がする。
 まぁ、俺はそれよりも、ほっぺたを膨らまして懸命にあの楽器を鳴らす少年少女が微笑ましく思えたのだが。
 彼らは、一体何を思ってあれに息を吹き込んでいるのだろうか。
 生命の息吹という言葉があるが、ブブゼラに生命は宿るのだろうか。
 おとなもこどももおねーさんも、ブブゼラを吹いている姿を頭に浮かべながら、俺はメルルちゃんのいるであろう三階へ向かった。

 それにしても、あんなにうるさい音を出して、近所から苦情は来ないのだろうか。
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