朝 うだるような暑さいっぱいの電車内で、俺はもうずいぶんと読書をしている。 読んでる本はハルキムラカミもとい村上春樹の文庫本。 ずいぶんと時代に迎合した選択だったと、われながら思う。 電車の中は超満員。かろうじて座ることが出来たのが、奇跡なぐらいだ。 俺は読書に没頭しようと、目の前の中年サラーリーマンのネクタイから視線を本へ落とす。 朝に少し雨が降ったからだろうか、今日は一段と湿度が高くてめくるページも心なしかベト付いてきて気持ち悪い。 加えて、したたる汗が力無く垂れ下がる前髪をつたってミッドナイトブルーのジーパンの上にぽとんぽとんと落ちてくるのである。 気をつけないと、まーるいシミが行間に、時には文字の上に出来てしまう。 読書に集中したいのに、あの独特の世界に入りたいのに、集中できないじゃないか。 俺は理不尽な現実にぶつくさ文句を並べつつ、携帯電話を取り出してみようとポケットに手を伸ばして、止めた。 左隣に座っていたのは、いかにもヤリ手なOLさんだった。 危ない危ない。もし痴漢と間違われたらエライ目にあいそうだったので、携帯はあきらめることにした。 俺はしょうがないので、ちょっと横のOLさんを観察する。 ふむふむ、色白に赤いメガネ。髪はストレートで、サラッサラ! この上なく俺のラブパターンに一致している!…………が、間違いなく釣り合わなさそうだとすぐわかってしまった。 なにしろ近頃人気の外国製スマートフォンを横に持って、超真剣な顔をしながら画面を穴が空きそうな勢いで見ているのだ。とっても仕事熱心な方らしい。会社の極秘資料の確認でもしているのだろうか。 少なくとも、俺みたいなウスノロ男と結婚したりしたら、三日で離婚するに違いない。 あぁ、話の駒を勝手にそこまで進めちゃうのが、俺の悪い癖だよなぁ…… 「…………」 ちょっと、何を見ているのか気になる。 いや、こう電車に乗っていると、どうしても暇つぶしが必要なのだ。 だから、まぁ、他人の携帯の盗み見の一つや二つ、電車通勤・通学をしている人なら誰しもやったことがあるだろう。 俺ももちろん、やったことがある。 満員電車でおしくらまんじゅうしながら立っていたとき、不可抗力で見てしまった高校生の携帯の写真がそれはもう、ハレンチ極まりないアレだったときはずいぶんと驚いたもんである。 (てか無修正って……) 今の若者は、性に対しておおらかだというが、せめて学校に行くまで我慢してほしいものだ。といっても、俺もまだ二十代になって数年の若者だけどな。 さて、そんなヨタ話は置いておいて、隣のOLさんのスマートフォンだ。 俺は溢れる好奇心を抑えつけることを諦めて、気付かれないようにそ〜っと首を動かした。 ゆっくり、ゆっくりと画面をのぞいていく。 時にOLさんは、なぜかは知らないがスマートフォンを激しく左右に揺れ動かしている。それが俺には内に秘めし感情(この場合は怒りだよな)をこらえているようにしか見えないので、とってもコワい。 よくいるよね、こういう女の人。もちろん男でもいるけどね。 まぁ、見た目がよければそれでいいんですけどね……って人も多いでしょ? もしかして会社の利益が大赤字のエクセルファイルを見ているのだろうか。 そういうのには、全ての部門の数字にマイナスがついてたりするんだろうか。 俺は会計をやったことがないので、その辺についてはドシロートである。 まぁ、何にしても、きっとそこにはマズいものがあるんだろう。 そんなことを考えていたら、丁度携帯の画面が俺の方を向いた。もとい、OLさんが動かした。 「…………」 画面の中では、真紅のポルシェが道のど真ん中でひっくり返っていた。 まるで亀のような、情けない姿を晒しつつ、ポルシェは後続車に次々と抜かれている。 白いフェアレディZが真横をすり抜けるのを見届けてから、俺はこのOLさんがレースゲームをしていたことを理解した。 なるほど、だからあんなに左右に携帯を振っていたのか。 今時のゲームは体感するのが流行りらしく、体全体を使ってやるものが多い。 レースゲームならば、ハンドルをさばくかわりにゲーム機をさばくのだ。 そして今、このOLさんはひっくり返ったポルシェを元に戻そうと必死に携帯を振っている。 白い顔が、愛車と同じ真紅に染まっていて、微笑ましい。 俺はしばらく、文庫本を手に持ちながらその光景を見つつ、心の中で声援を送っていた。 だが、ポルシェがレースに復帰することはなく、OLさんはしびれを切らして携帯をしまい込んでしまった。 その時、運悪く視線が合った。 かなりまずい。 真っ赤な顔のまま、OLさんは赤い眼鏡の奥にある大きな瞳でキッと俺をにらんでくる。 「……なんですか?」 俺はとっさに開いた文庫本のページの、猫が主人公をバカにしている台詞だけを目に焼き付けながら知らない素振りをすることにした。 だが、現実はそんなに上手くいかない。 「ちょっと、何見てたんですか?」 怒りを隠さずに、OLさんは俺に言い寄ってくる。 どうやら相当イライラしているらしい。 俺は文庫本から目を離さないが、向こうも怒りの矛先を俺から外さない。 車内アナウンスが間もなく次の駅に到着することを告げたので、とりあずにそこで降りて逃げてしまうことに決めて、俺は天に祈りながらだんまりを続けた。 だが、それがOLさんの怒りの炎に油を注いだらしい。 ついに彼女は怒鳴った。 「聞いてるんですか!?」 その声で、周りのおっさん達が俺とOLさんの座っている辺りを何事かとのぞいてくる。 新聞の隙間から、突き刺さるような視線が俺に降り注ぐ。 一体俺が何をした。こんなとばっちり、受けてなるものか。 その一心で俺が文庫本にかじりついていたら、ついに電車が駅に到着した。 気の抜けた空気音を立てて扉が開き、新鮮な朝の冷たい風が車内に吹きこんでくる。 俺は逃げるように席から立ち上がろうとするが、その前にOLさんが素早く立ち上がって俺の前に立ちはだかった。 突然の出来事に俺は戸惑い思わず彼女の顔を見上げて、その鬼の様な形相に腰を抜かしそうになるのをなんとかこらえる。 間髪入れず、俺はビンタされた。 「ちょっ」 とんでもなくいい音を立て真っ赤になった頬を手でかばった時にはもう、OLさんは電車を降りていた。 外の空気は遮断され、再び電車内は熱気に包まれる。 一人残された俺の隣の席に座る人はいなかった。 その代わりにと言わんばかりに、むせるような視線が俺の身をまとう。 だが、それを今更気にしてもしょうがない。 俺は涙目で読書を続けることにした。 週末の寝床にしている赤坂ロフトの最寄り駅までの十分が、死ぬほど長く感じる。 あそこはいつも、どんな暑い日でも軽井沢のように涼しい。 場所だけならば、最高の立地だろう。 けれど、集う人間の質は、最高とは言えない。 俺を含めて、ちょっとおかしい人間がやってくる。 そんなことをしみじみと考えていたら、頬を伝う涙をいつの間にかなめていて、しょっぱい気持ちになった。 電車の揺れが止まったので、俺はうなだれたまま、文庫本を静かに閉じる。 すかしっ屁の音と共に電車を降りて、深呼吸をひとつして、俺は歩き始めた。 赤坂ロフトへと。