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作:山田一人

 六月、梅雨。じめじめした空気と不規則な雨の音が僕の気持ちを少し沈ませる。
 椅子に座って部屋の中で大事に育てている可愛い虫たちを見回す。心なしか、どの虫も僕の視線に気づいて見つめ返してくれているように感じて、少し嬉しくなった。
 ふと、一つのケースに目が止まる。中では一匹の黒色の蜘蛛が僕の方を見つめている。ブラジリアン・ブラック。いわゆるタランチュラと呼ばれる部類の蜘蛛の中の一種だ。
 僕は椅子から立ち上がると、その蜘蛛――クモ子の入ったケースに顔を近づけた。するとクモ子も僕の方へと近づき、人間が相手に手を振るように足を僕に向けて振った。
 僕は飼っている虫全てを愛している。でも、虫たちが僕を愛しているかどうかは分からない。なぜなら意思を疎通させる手段がないから。
 あり得ないことだけど、この虫たちが言葉を話せるようになったらいいなと思う。もっとあり得ないことだけど、虫たちが僕たち人間のような姿――いわゆる擬人化というものだ――になったらきっと面白い。
 前に一度、友人たちに同じことを話したことがある。ほとんどに「馬鹿みたいだ」と言われてしまった。ただ一人、太田君という友人だけが「いいねえ。そんなことがあるならメスの虫をたくさん飼っちゃうな。デュフッ」と賛同してくれた。
 でも、それはあり得てしまうことかもしれない。
 あやふやな記憶、夢だったと思うことにしていたとある過去を思い出す。これは誰にも話したことはないが、話したら誰もが夢だというに違いない、摩訶不思議な記憶。
 そう言えば、あの時もこんな風に雨が降っていたっけ。それに、クモ子……。
 だから思い出したのかもしれない。
 僕は椅子に座りなおすと目を閉じた。意識がゆっくりと、記憶の海に沈んでいく――――



「お邪魔しました」
 僕は同じ生物部の友人の家を後にした。
 今日は生物部のメンバー同士でペットを持ち寄って集まっていたのだ。僕は蜘蛛を持ってきていた。半年前に買ったメスのブラジリアン・ブラック。黒い身体が可愛らしい。
 僕は彼女の入ったケースを両手で大事に持つと、ゆっくりと自宅への道を歩いていく。
 普段は距離があるのでこの友人の家には自転車で行くのだが、今回はクモ子の入ったケースを持っていく必要があったため、仕方なく徒歩だ。自宅までは三十分ほどかかるだろう。
 普段は意識していなかった周りの町並みをゆっくりと見回しながら歩いていく。思ったよりここらは人気が少ない。
「静かなところだね」
 僕はクモ子に話しかけた。彼女たちもケースの隅に張り付いていた。僕と同じように外を見回しているのだろうか。
 少しして前方に人影が見えた。制服を着た数人の男子。そして彼らに囲まれるようにして立っている私服の男子。さらに近づくことで、制服の男子たちは品性がよろしくない生徒が多いことで有名な××高校の生徒で、私服の男子が僕のクラスの友人である太田君であることが分かった。
 状況を完全に把握した。不運なことに太田君は制服をアウトローに着こなす、いわゆる不良少年に絡まれていたのだ。彼らの癇に障る行いをしてしまったのか、金銭等を目的に脅迫まがいのことされているのかは分からないが、どちらにしてもあまり……いや、かなり関わり合いになりたくない状況の真っただ中にいることは間違いない。
 非常に申し訳ないのだが、僕は喧嘩が弱いし、度胸も人並みにあるかどうか怪しい人間なので、太田君に気づかれないように横を通り過ぎたかった。
 しかし、そう思った時にはもう遅い。助けを求めようと周囲をきょろきょろしていた太田君の目が僕を捕捉するのは必然だったのだ。
「あっ!」
 太田君は嬉しそうに声をあげると、まるで天から舞い降りた救世主を見るようなまなざしをこちらに向けながら、僕の名前を連呼した。……なんてこった。
「た、助けておくれよぅ」
 太田君の手招き。そして不良少年たちの視線。ああ、終わったな。僕はしぶしぶ彼らの元へと向かった。
「どっ、どどどどうしたんだい太田君」
 平静を装って言ったつもりだったが、唇が震えまくりで情けない限りだ。
「この人たちが僕に金をよこせって言うんだよぅ。でも僕は今から予約していたゲームを買わなきゃいけなくて……」
 やはり恐喝されていたのか。しかし太田君はゲームを買いたいからお金を渡せないとかたくなに要求を拒んでいたわけだ。よく暴力をふるわれなかったな、と思う。
だが、先ほど――つまり僕が来る直前まで不良少年たちはそろそろ我慢の限界と言った感じで眉間に皺をよせて血管を浮かび上がらせていた。危機一髪のタイミングで僕は通りかかってしまったというわけだ。
「ねえ、助けておくれよぅ」
 おいおい、僕に何ができると言うんだ。そんな期待をしないでくれ。
「おう、こいつの友達か?」
「は、はいっ」
不良少年たちが次々と僕に視線を移す。ああ、見ないでくれ……
「俺らさあ、このオタク君からちょこーっとお金を借りようと思っただけなんだけどさ。こいつゲームゲームってうるさくて全然貸してくれないんだよね。ちょっとイライラきちゃって」
 真ん中にいた金髪メッシュの不良少年が僕に顔を近づけて言った。おいおい××高校は校則が緩すぎやしないか。
「そ、そうですか。お気持ちはよく分かります」
 分かんねえよ。何言ってんだ僕は。
「そこで俺、言いこと考えちゃった」
 今度は金髪メッシュの横にいた剃り込み坊主の不良少年が、僕に顔を近づけて言う。
「代わりにお前が俺らに金を貸してくれればいいんじゃね?」
 予想どおり勝つ最悪の展開。
「お前頭いいな!」
「天才だな。見直した!」
 他の不良少年たちが剃り込み坊主を褒めたたえる。ちょっと何この流れ。なんでそんなに楽しそうなんだ。僕はちっとも楽しくないぞ。
「そういうことで」
 剃り込み坊主が僕に手を差し出した。
「金、貸してくれない?」
「いや、それはちょっときついと言いますか……」
 幸い僕の財布の中には小学生のお小遣い程度の金額しか入っていない。このまま財布を差し出してしまおうという選択肢もアリかな……と負け犬的思考になり始めていた。
「いいじゃん、借りるだけなんだからさ。今度返すって。な?」
「本当に返してくれるんですね?」
 別に返してもらえるとは思っていない。僕はジーンズのポケットに入っている財布を取り出した。
「話が分かるやつで嬉しいわ。どっかのオタク野郎とは天地の差だわ」
 剃り込み坊主は僕の手から財布をひったくると、中身を確認しはじめた。
「やけに軽いなおい……。あらっ、全然入ってねーじゃんか。札すらねえってどういうことだよ」
「金欠でして……」
「これじゃあちょっと足りねえな」
「そ、そんなあ」
 さすがに五百円弱では駄目だったか。ピンチだ。これは太田君にゲームを諦めてもらうしかな――
「おいオタク野郎いねえぞ。どこいった」
「あっ、本当だ。あの野郎。逃げやがった!」
 おいちょっと待ってくれ。太田君、マジで逃げたのか。
 僕は必至で周りを見回す。見事に太田君は霧消していた。忍者か君は。
「いないなら、しょうがねえよ。こいつでいい」
「でも、こいつ全然金もってねえじゃん。これじゃ遊ぶに遊べねえよ」
「馬鹿おめえ、良く見てみ」
 剃り込み坊主は僕が抱えているケースを指さした。
「なんか珍しいの持ってるじゃん。それ蜘蛛だろ? ペット?」
「そ、そうですけど……」
 嫌な予感なんてものじゃない。とにかく僕はその場から逃げ去りたくなった。
「それくれよ。売ったら金になりそうだし」
 その瞬間、僕はその場から逃げだした。クモ子の入ったケースを抱えて全力で疾駆する。この子を渡すわけにはいかない。僕の大事な娘のようなものなのだ。
 家まであとどれくらいだろう。五分以上はかかるかな。果たしてこのペースを維持できるだろうか。なにせ運動不足だ。でも逃げなきゃ――
 ごちゃごちゃと考えているうちに肩を掴まれた。僕はそのまま転倒する。
 クモ子が危ない!
 顔面から地面に突っ込みそうになった僕は身をひるがえし、ケースを抱えて背中から倒れる。よかった、クモ子は無事だ。
 だが、ほっとした直後に僕の腕からケースが奪われた。金髪メッシュの不良少年だった。得意げな表情でこちらを見下ろしている。
「こんなもん抱えながら逃げられると本気で思ったの?」
「おい返せっ!」
 僕は叫ぶ。いつしか不良少年たちに対する恐怖は無くなっていた。
 起き上がるとケースを奪い返すべく金髪メッシュに飛びかかる。が横から別の男に足を引っ掛けられて再び無様に転んでしまう。その体勢のまま二人人の不良少年に踏まれて起き上がれなくなった。
「で、この蜘蛛を売るあてなんてあんの?」
 金髪メッシュはケースの中を覗きながら剃り込み坊主に問う。
「隣のクラスの岸田っているだろ。あいつ虫とか小動物を集めて色々と遊んでるらしいんだよ。見た感じ珍しそうな蜘蛛だからそいつが買ってくれると思う」
「ああ、岸田ね。あの趣味の悪いやつ。まあ金になるならいいか」
「つーことで」
 剃り込み坊主が僕に顔を近づけると、にやにやと下品な笑みを浮かべながら言った。
「この蜘蛛はもう生きて帰ってこないと思うけど。まあ、運が悪かったってことで、ね」
 頭が真っ白になる。
「どんな風にして遊ぶんだろうな」
「ミキサーでぐちゃぐちゃとか?」
「そんな簡単に殺したりしないだろ。あの変態のことだし、もっといたぶるんじゃね?」
「俺ら常人では到底考え付かない遊び方をするんだろうな」
「こえーこえー」
 限界だった。僕は全力で暴れて踏みつける足から解放されると、すぐさま立ち上がって金髪メッシュに殴りかかった。が、避けられる。空振りした僕は勢いあまって体勢を崩す。そこに剃り込み坊主のボディブロー。僕は情けないうめき声を漏らしながらまた地面に崩れ落ちた。
 こんな風に殴られたのは生まれて初めてだった。あまりの苦しさに身を丸めて歯を食いしばる。立ち上がれない。
「お前加減しろって」
「十分したって。こいつがもろいだけ」
 笑い声が響く。聞きたくない、不快だ。
「じゃ、これ貰ってくね」
 不良少年たちが去っていく。僕はその中の一人の足に必死でしがみつく。しかし振りほどかれると、腹を蹴られて行動不能となった。
 遠くなっていく声を聞きながら、僕は地面を濡らした。

 歩ける程度に回復した僕は、家に帰ると部屋に籠って泥のように眠った。
 翌日、なんとか学校に行くことはできた。授業が始まる前に太田君が謝りに来た。一瞬、彼を責めようと思ったけど、よくよく考えれば一応彼も被害者だったので、その気も失せた。
 一日中憂鬱だった。娘のように大事にしていたクモ子を奪われたのだ。そして彼女はいずれ殺されてしまう。そう考えただけで心が張り裂けそうだった。
 六時限目が始まる前に、僕は早退した。学校から出ると、家ではなく、別の場所へと向かった。
 数十分歩き、目的地へと到着する。××高校――。僕はクモ子を取り戻すべく、不良少年の巣窟と呼ばれるこの学校へと来たのだ。
 目的は一つ。昨日、不良少年たちが話していた岸田という人に会い、クモ子を返してもらうことだ。最悪、高い金を払ってでも返してもらう。
 不安なのは、昨日のうちにクモ子が殺されてしまったのではないかということ。それだけはないと信じ、僕は校門の前で待ち続けた。
 チャイムが鳴る。しばらくして、××高校の男子生徒が校舎を出て校門へと向かってきた。
 僕は岸田の情報を得るべく、彼に接触を試みることにする。
「あの」
 校門から出てきた男子生徒を呼び掛ける。
「ちょっと聞きたいことがあるんですけどいいですか」
「いいですけど」
「この学校の生徒で岸田って人を探してるんですけど」
「岸田……ですか」
「知らないですか? この学校の生徒なのは確かなんですけど」
「うーん……知らないです。多分違う学年の人じゃないですかね」
「ちなみにあなたは何年生ですか?」
「一年です」
「そうですか。ありがとうございました」
 彼に礼をして別れる。岸田は二年、あるいは三年の生徒のようだ。
 さらに待つ。ぞろぞろと生徒たちが校門を通って行く。その中でも比較的年齢の高そうな生徒を狙って声をかけた。
 運よく、二人目にして岸田と同学年で三年生の生徒だった。
「岸田って人はまだ教室にいますか?」
「いや、岸田は今日学校を休んだよ」
「え?」
 最悪だ。休んだということは、一日中家にいたと考えていい。つまり、クモ子を拷問にかける時間はたっぷりあるということ。
「あいつ変態だけど、学校は毎日来てるんだ。皆勤賞間近だってのに」
 普段は休まないのに今日だけ休んだ。つまり学校にこられなくなるほどの高熱だったりなんらかの病気に罹っているのかもしれない。もしそうだとしたら、クモ子はまだ無事だ。
 なんとか希望を捨てまいと無理やり考えをまとめる。そうでもしなければやってられない。
「あの、岸田って人の家の場所は分かります?」
「一応分かるよ。えっと」
 その三年生は丁寧にも紙に簡単な地図を描いてくれた。不良少年の巣窟に通う生徒とは思えないな、と失礼なことを考えてしまう。
「ありがとうございます!」
 地図を受け取ると、深く頭を下げて礼を言う。そして岸田の家へと向かった。

 結果を言うと、岸田の家には誰もいなかった。正確には呼び鈴を押しても反応がなかった。
 彼の家は緑色の外装をした二階建ての一軒家だった。その外観から周囲の家々の中でもひと際目立っていたため、すぐに分かった。
 おそらく十回はボタンを押したと思う。休んだのなら家にいるはずだろう、そう信じて粘り続けた。
 しかし、さすがの僕でもこれ以上押したところで意味はないと悟り、岸田の家を後にすることにした。
 最後に少し離れた場所から岸田邸を見やる。二階のある一室の窓だけは開いていた。誰の部屋だろうか。岸田の部屋かもしれない。
「岸田くーん!」
 僅かな希望を込めて、叫ぶ。反応はない。
 諦めて僕は家に帰ることにした。もう僕には何もできないのか。クモ子を救い出す術はないのだろうか。
 とぼとぼと俯きながら歩いていく。少しして集団の笑い声が聞こえた。声が近づいてくる。聞き覚えのある声だった。下品で、不快な笑い声。
 交差する道でその声の集団とはち合わせた。昨日の不良集団だった。僕からクモ子を奪いとったやつら。
「あ、昨日の蜘蛛のやつじゃん」
 金髪メッシュが僕に気付いて声をかけてくる。
 冷静でいられるはずがなかった。僕はすぐさま殴りかかる。
「クモ子を返せよぉ!」
 拳を受け止められる。そしてすぐさま返しの一撃を食らってしまった。昨日に続き、今日までも僕は地面に沈む。
「悪いね。もう他のやつに売っちゃったからさ」
「たった五千円だったけどな。カラオケ行ってはい終わり」
「おい……」
 痛みをこらえながら、声を振り絞る。
「岸田はどこだよ……どこにいるんだよぉ……」
「あ? 知らねーよ」
 そう言うと不良集団はうずくまる僕を馬鹿にするように笑いながら去っていった。
 情けない……情けなすぎる。
 アスファルトの色が変わる。最初は僕の顔の真下だけ。次第にアスファルト全体、そして僕の身体が少しずつ濡れていく。
 僕はゆっくりと立ち上がると、亡霊のようにゆらゆらと歩みを進めた。
 頬を伝うのが涙なのか雨水なのか、僕には分からなかった。

 何かをするわけでもなく、自室の椅子に座ってぼうっとしていた。
 窓から外を見やる。灰色の空と雨音が僕の精神をさらに沈めていく。せめて天気ぐらい晴れてもいいのにと思ったが、晴れたところでクモ子が帰ってくるわけではないので、さらに気が沈んだ。
 もうすぐ家族の誰かが帰ってくるころだろうな、と時計を見ながら思った。今は家の中に僕しかいない。
 突如、コン、という音が鳴った。
 誰かが扉をノックしたのかな。ということは家族の誰かが帰ってきたのかもしれない。椅子から立ち上がり、扉を開けた。しかし、そこには誰もいなかった。
 不思議に思っていると再びコン、と鳴った。この音は扉からではなかったのだ。ではどこから? 部屋を見回す。
 三度、コン、と鳴る。窓が震えた。誰かが小石を窓に投げつけたのだ。
 僕は窓の方に寄ると、外を見た。僕の部屋から玄関先がちょうど見下ろすことができる。だが、そこに人影はなかった。
 だが、白色の良く分からないものがいくつも転がっているのが見えた。白い何かでぐるぐる巻きにされたような人型をした何か。
 あれはいったい何なのか。確かめるべく、僕は急いで外に向かった。
 慌てていたのか、傘もささずに白い何かに駆け寄る。近くで見てその白いものが何なのかに気づく。
 それは蜘蛛の糸のようだった。
 だが、蜘蛛の糸にしてはあまりにも量が多すぎる。さらに一本一本の太さが蜘蛛の糸のそれではなかった。
 まるで、超巨大化した蜘蛛が出したとしか思えないような代物なのだ。
 じゃあ、それに包まれているのは一体何なのか。人型をしているが……まさか。
 嫌な予感。と同時に一部を手で掴み、引きちぎる。予想異常に力のいる作業だったが、なんとか中を見ることができた。
 嫌な予感は的中する。隙間から見える黒髪――人間だ。
「なんなんだよこれ……」
 思わず呟きながら、糸をさらにちぎっていく。次第に顔全体が見えるようになってきた。知らない男性。年齢は僕とあまり変わらないようだ。
 首には何かで締め付けたような痕。おそらくこの糸だろう。死んでいるのではないかと焦るが、呼吸をしているのを確かめて安堵する。
 しかし、これはどういうことなのだろう。誰がこんなことを……
 すぅっと、影が僕と見知らぬ男を覆った。後ろに人の気配。振り返ろうとしたところで後ろから二本の細い腕が僕の首に絡みついた。おそらく女性の腕だ。
「ただいま戻りました」
 耳元で囁かれる。声で女性であると確信。しかし、聞き覚えのない声だった。
「君は……誰だ」
 恐る恐る僕は問う。
「そうでした。この姿になってから会うのは初めてですものね」
 僕の顔の横に、後ろの女性が顔を寄せた。頬と頬が触れあう。艶のある長くて綺麗な黒髪、顔はよく見えない。
「私ですよご主人様」
 彼女は頬を離すと僕の方を向いた。綺麗な女の子だった。年齢は十代半ばほどか。真っ直ぐにこちらを見つめる黒い瞳に吸い込まれそうになる。
 しかし、僕はこの子に見覚えはない。
 少しの沈黙の後、彼女は口を開いた。
「クモ子です、ご主人様」
「……へぁ?」
 思わず間抜けな声を出す。この子がクモ子? どう見ても人間の女の子だ。クモ子はタランチュラだぞ。
「疑ってますねご主人様。でも、無理もないと思います。私自身初めてこの姿になったときは驚きましたから」
 クモ子を名乗る女の子は僕の身体から離れる。
「じゃあ、こっちを見てもらえますか。そうすれば、私の言っていることを理解してもらえると思います」
 言われた通り、僕は後ろを振り向く。そこには黒衣の彼女がいた。が、僕は絶句する。
「これで、信じてもらえますか」
「本当に……クモ子なんだね」
「ええ、そうですご主人様」
 嬉しそうにはにかむクモ子。元が虫とは思えないほど妖艶な雰囲気を持つ人間の姿をした女の子。しかし、下半身だけは違った。そこだけは人型に変化することなく、蜘蛛のときと同じような姿をしていた。蜘蛛としての半身に八本の脚が自身の身体を支えている。
「たったの一日でしたけど、会えなくて寂しかったです」
「僕もだよ。ずっと心配だった。こうしてまた会えると思っていなかった」
「ご主人様……」
 瞳に涙を浮かべて、クモ子は僕の言葉に喜んでいた。
「もう一度……抱きついていいですか?」
 僕はこくりとうなずき、両手を彼女向けて広げた。
 クモ子が僕の胸に飛び込んでくる。僕はそれを優しく受け止める。感動の再会シーンである。なんてドラマティック。だけど――
「なあ、クモ子。お前に聞かなきゃいけないことがある」
「なんですかご主人様」
「そこに転がっている糸で巻かれた人たち。あれはお前がやったんだろう。いったい誰なんだ?」
「あれですか。ご主人様も知っている人ですよ」
「僕の知っている人? 僕はあんな人しらないぞ」
 最初に糸を裂いて顔を見た男を指さして言う。
「あの人は私を殺そうとした男ですよ。金で私を買って」
「岸田――!?」
「そう呼ばれていましたね」
 あれが岸田か。確かに知っている人ではある。名前だけだったが。と、いうことは――
「他の人間の顔も見ますか?」
 そう言ってクモ子は僕から離れると、クスクスと笑いながら転がっている人たちのもとへと寄る。そしてその中の一人に巻かれた糸を器用に裂いた。
 僕もそれに近づき、顔を覗く。予想通り――不良たちの中の一人、金髪メッシュだった。
「なんでこんなことを」
「ご主人様を傷つけるんですもの、当たり前です」
 僕がボコボコにされたお返し、ということだろうか。
「首は絞めてありますが死んではいません。それはご主人様も岸田を見て確認済みでしょう」
「ああ。だけどこの後はどうするんだ」
「ご主人様の好きにしてくれて結構です。殺してしまってもかまいませんわ」
「殺っ……」
 まさかクモ子の口からこんな言葉が出るとは思わなかった。僕はこんな子に育てた覚えはないのだが。
「殺すとか、そんな物騒なこと言うなよ。僕はお前が生きて戻ってきてくれたから、もうそれでいいんだ」
「でも、こいつらはご主人様に暴力を……」
「もういいんだよクモ子。帰ろう」
 僕はもう一度、クモ子を抱きしめた。娘のように可愛がっていた子に、これ以上下品なことは言ってほしくない。
「……分かりました」
 良かった、分かってくれた。君を大事に育ててきてよかった。
「俺は分かんねえなあ」
 クモ子ではない第三者の声。僕は驚き、声の方へと首を向ける。
「おい、これはどういうことだよ」
 蜘蛛の糸を裂き、金髪メッシュが起き上がってこちらを睨んでいた。手にはナイフを持っている。これを使って自由になったのだろう。
 血の気がさっと引いていく。嫌な予感しかしない。
「いきなり襲われて首絞められたと思ったらよぉ。ぐるぐる巻きにされてこんなとこ連れてこられて。どうなってんだよ。意味分かんねえよ」
 金髪メッシュは気が動転しているようだった。それに少し怯えている。クモ子の姿を見たからだろう。無理もない。
「このバケモノ俺らに差し向けたのお前だったんだな。上等じゃねえか雑魚野郎」
「おい、今何て言った」
「あ?」
「今クモ子のことバケモノって言ったな。取り消せ!」
 気づけば我を忘れて金髪メッシュに食いかかっていた。相手はナイフを持っているのに、だ。僕は冷静さを失っていた。自分の娘をバケモノ扱いされて黙っていられるものか。
「どこからどう見てもバケモノじゃねーか。こいつに俺ら殺されかけてんだぞ!」
「バケモノじゃない!」
「ふざけやがって……!」
 金髪メッシュが身体をわなわなとふるわせるとナイフを構えた。一瞬で僕は冷静さを取り戻す。
「お前もバケモノもぶっ殺してやる!」
 ナイフの切っ先をこちらに向けて突進してくる。最悪の展開。僕は逃げることもできずその場で目をつむる。
「うあっ」
 叫び声。
 しかし、それは僕が発したものではない。恐る恐る僕は目を開けた。
 目の前には仰向けになって地面に転がる金髪メッシュ。その腕には蜘蛛の糸が絡みついていた。手からナイフは離れて少し離れた場所に転がっている。
「怪我はないですかご主人様!」
 クモ子が血相を変えながらこちらを見る。
「ああ、大丈夫だ。ありがとう」
 死ぬかと思った……。クモ子のおかげだ。
「良かったです。あとは……こいつを殺すだけですね」
「……え」
 クモ子は金髪メッシュの手から離れたナイフを手に取ると、八本の脚で彼を地面に押さえつけた。
「おいクモ子やめろ」
「やめません。私はもう限界です。こいつを許せそうにありません」
 僕は走る。クモ子はナイフを振りかぶる。間に合うか。
 金髪メッシュの青ざめた顔が見える。クモ子はナイフを振りおろす。まずい。
 二人の間に飛び込む。――赤。次に激痛。僕は左腕を押さえた。
 鮮血が僕を、クモ子を、金髪メッシュを染める。僕の服に血がつかなかったのは不幸中の幸いか。痛いが、くだらないことを考える程度の余裕はまだある。
「ご主人様!」
 クモ子が声をあげて僕を抱きとめる。そしてナイフが刺さった左の前腕を持ち上げる。
「どうして、どうしてこんなやつのことを庇うんですか!?」
 涙で顔をくしゃくしゃにした彼女は叫ぶようにして僕に問う。
「そりゃあ……決まってるだろ。自分の娘に人を殺してほしくないんだ……」
「だからって……」
「もう、これで全部終わりだ。今までみたいな生活に戻ろう」
 痛みをこらえて、僕は精いっぱいの笑顔をクモ子に向けた。悲痛な表情をしていたクモ子も、それを見て頷く。
「はいっ」
 彼女は笑顔で返事をしてくれた。それでこそ僕のクモ子だ。
「さて」
 僕はふらふらしながらも立ち上がると、金髪メッシュを見下ろす。彼は刺される恐怖のためか気を失っていた。
「最後に仕返しをして、全部終わりだ」
「え……ご主人様は何もしないって……」
「そのつもりだったけどね。クモ子をバケモノ呼ばわりされたのは許せないよ」
 僕は怪我をしていない右手の指先にまんべんなく血を塗りたくると、それを金髪メッシュの顔に向けた。
「くらえ」
 おでこに肉マーク。目の周りをパンダみたいに丸く囲む。鼻の下にはちょび髭。頬には猫の髭。やりたい放題落書きをする。
「ご主人様……?」
 僕が鉄拳制裁をするとでも思っていたのだろう。クモ子はぽかんとしながらその様子を見ていた。
「これでよし」
 顔中に落書きをして満足する。残るは……
「ナイフ抜かなきゃ」
 幸い刃渡りのあるナイフではない。僕は唾をごくりと飲み込むと、柄を握った。
「ご主人様、それ抜かない方が……」
 目の前のナイフに集中していた僕はクモ子の言葉も耳に入らなくなっていた。目をつむり、ナイフを腕から抜く。
 再び激痛。気を失いそうになるがなんとか耐えることができた。が、血が大量に溢れだす。足がガクガクする。ふらふらと倒れそうになる。
「だから言ったのにぃ!」
 クモ子が僕に駆け寄る。と同時に僕は倒れた。ギリギリのタイミングでクモ子が僕を受け止め、地面とのキスは回避することができた。
「腕……血を止めなきゃ」
 クモ子は糸を出すと僕の腕に巻き付けた。
 必死に僕に応急処置をするクモ子を見上げる。だんだんと意識が遠退いてきた。
 雨に濡れながら懸命にご主人様と連呼し、僕を解放するクモ子はとても綺麗に見えた。
「クモ子……綺麗だよ」
 ほぼ、無意識につぶやいていた。
 クモ子はその言葉に頬を、そして顔全体を赤く染める。直後、僕の意識は沈み、真っ暗になった。

 目を覚ましたのは風呂場だった。
 僕はパンツだけの状態で寝転がっていた。少しすると、妹がやってきた。
「よかった、目が覚めたんだね」
「ここは自宅? 僕んちのお風呂?」
「そうだよ。もうちょっと目覚めるのが遅かったら、私がおにいのパンツを脱がすところだったよ」
 それは恥ずかしい。僕も妹も。目が覚めて良かった。だが、状況が分からない。
「何がどうなってるのかを簡潔に教えてくれ」
「おにいは一人雨の中外で寝ていました。以上」
「一人? 周りにたくさん人がいただろう。それにクモ子も」
「おにい以外誰もいなかったよ。クモ子もね」
 どういうことだ? 僕はあのとき意識を失って……
「じゃあ、ここにタオル置いていくからね」
 そう言って妹はこの場を立ち去る。
「おいちょっと待っ――」
 左手を伸ばして妹を制止しようとして、言葉を失った。前腕にあったナイフの刺し傷が、綺麗さっぱり無くなっていたのだ。
 確かにナイフが刺さって溢れんばかりの血が流れていたはずなのに。
「どうなってるんだよ」
 思わず一人ごちる。
 混乱して、その場でぼうっと寝転がり続けていたが、雨にさらされて身体が冷えていたため、シャワーを浴びて落ち着くことにした。
 妹が湯を貼ってくれていたようなので、湯船にゆっくり浸かって身体を芯から温める。出来の良い妹を持てて兄として幸せだ。
 風呂からあがり着替えを済ますと、まずは玄関へと向かった。
 扉を開けて外を確認する。案の定、何の形跡も残っていなかった。クモ子や不良たちはおろか、僕が流した血の跡もない。
 あの出来事は夢だったのだろうか。だとしたらどこからどこまで?
 分からないまま僕は自室へと向かう。もしクモ子が戻ってきたのも夢だとしたら。そんなことを考えて不安になる。
 部屋の扉を開ける。机の上に物陰。灯りを付ける。
「クモ子!」
 机の上にいたのはクモ子だった。しかし先ほどまでの人型ではなく、本来の姿で僕を待っていた。
 彼女を手のひらに乗せる。
「なあ、あれは夢だったのか?」
 クモ子は答えない。蜘蛛は人間の言葉を喋られない。当たり前だ。
「もし夢じゃなかったら、答えてくれよ。あの姿になってみてくれよ」
 クモ子の様子は何も変わらなかった。ということは、あれは夢だったのだろうか。
「まあ、どうでもいいか」
 僕は思い切り微笑むと、クモ子に言った。
「おかえり、クモ子。もう離さないからな」


 意識が記憶の海から浮上する。
 あのとき以来、クモ子が人型になることはなかった。不良少年たちにもう一度会って、確かめてみようかと考えたこともあったが、夢じゃなかった場合シャレにならないくらいに暴行を受けるに違いないのでやめた。
 その後、不思議と彼らと街中で遭遇することもなかった。僕の運が良かったのか、不良少年たちの存在もまた夢の産物だったのか。それもまた分からないままだ。
 ただ、人型になったクモ子はとても可愛かった。あの姿だけは今もまだはっきりと覚えている。
 ずっと過去の記憶を思い返しているうちに、眠くなってきた。
 このまま眠ったら、僕は何か夢を見るのだろうか。だとしたらそれはどんな夢だろう。楽しい夢がいいな。例えば人型のクモ子とおしゃべりできるような。
 悲しい夢は嫌だな。例えばクモ子は僕の元からいなくなってしまうような。
 ああ、目蓋が思い。今度は意識が眠りの海に沈んでいく。
「ずっと一緒ですよご主人様」
 意識が沈みきる直前、そんなクモ子の声が聞こえたような気がした。


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