作:橘圭郎
もう、あれはニ年以上も前のことになりますか。 極度の虫好きが高じて実家を追い出された私と兄さんは、二人でいろんな虫を捕まえては愛でていました。まあ追い出されたとは言っても、住むところを探すのは父さんも協力してくれたから、そんなに家族仲が悪くなったわけではないですよ。念のため。 なんにせよ、それはそれは至福の日々でした。オオカマキリ、ナナホシテントウ、ゲンジホタル、ジョロウグモ……どこかのコレクターが自慢するみたいな外国の珍しいものじゃなくて、どちらかと言えばそういう身近なものが好きなんです。 その中でも特に憶えている、というよりも忘れられないのは、二匹のオオミノガでした。ええ、そうです。俗に言う、ミノムシの一種ですよ。 始まりは、梅雨が明けたくらいの頃だったと思います。部屋に小さな芋虫が迷い込んで来たんです。たまたま開けていた窓から入ってきてしまったんでしょうね。やけに風の強い日だった記憶があります。……え? 寝室と、虫部屋はもちろん別ですよ。決まってるじゃないですか。大切な虫の入った籠を無用心に外気に晒すわけないですからね。 それで、ですね。実はその芋虫――後で調べてオオミノガの幼虫だと分かるわけなんですが――は、私の寝室と兄さんの寝室のそれぞれに、一匹ずつ入ってきたんですよ。これは不思議な巡り合わせだと思って、その二匹だけは虫部屋じゃなくて、そのまま寝室で飼うことにしたんです。おかげで気軽に冷房を使えなくて、熱帯夜の日は寝汗が酷かったんですけどね。それもまあ、いい思い出です。 それで、なんでしたっけ? あ、話の続きですよね。私達はその二匹に名前を付けました。兄さんのところに来たミノムシは「ミノ子」、私のところに来たのは「ミノ介」と呼ぶことにしたのです。 知ってます? ミノムシの蓑ってね、なにも自然の木の枝や葉っぱじゃなくてもいいんですよ。裸のミノムシを適当な大きさの紙の切れ端とか糸くずの中に放り込んでおくと、それを使って蓑を作るんです。 私はミノ介に千代紙を与えました。深みのある色合いが重なって、とても趣きがありました。 兄さんはミノ子に生糸を与えました。絹の白さが艶やかで、滑らかで、とても綺麗でした。 二匹は冬を越し、春を迎えました。蓑にくるまれたまま蛹になって、そしてまた梅雨明けの時期に羽化することを私達は心待ちにしていました。 そんなある日、私が学校から帰ってくると、リビングに見たこともない男の人がいたのです。 その人は端麗な顔立ちで、見た目には若いながらも、同年代の男子には無い落ち着きを具えていました。服装は羽織に袴と、まるで昔話の桃太郎が絵本から抜け出たような格好でした。でもさすがに刀は持っていません。羽織は暗い茶色が多く占めていて、パッと見の印象では地味な感じですが、要所要所には千代紙を思わせる朱色があしらわれていました。 しかし何より私が注目したのは、彼の額から生え出ている二本の触覚です。それぞれに櫛歯状の突起が並んでいました。触角の長さは大体で、30cmくらいだったでしょうか。もしかしたらもうちょっと長かったかもしれませんが、ちゃんと計ったわけではないので分かりません。 「……ミノ介?」 私は鞄を手にしたまま、第一声で訊ねました。今にして思えば不思議なことですが、当時は彼を不審者かもしれないとは全く疑いもしなかったのです。 「これは、妹御前様(いもごぜさま)。お帰りなさいませ。ご機嫌麗しゅうございます」 兄さんの寝室の前で正座をしていたその人は、その場で身体の向きを変えて、深々と頭を下げてきました。何故だか私は、この人はミノ介で間違いないんだな、と妙に納得してしまいました。多分、その、非日常的な物事を簡単に信じさせる、フェロモン? みたいなものが、きっと出ていたんでしょう。そうに違いありません。 「じゃあ、そこにはミノ子がいるの?」 私はミノ介の後ろにある扉を指差しました。彼はゆっくり頷きました。 「左様でございます」 「え、見たい。見せて! 見せて! ミノ介がそんなイケメンになったんだもの。きっとミノ子もすっごく綺麗になったんでしょ? あ、それとも可愛い系とか?」 「駄目でございます」 興奮のままに兄さんの部屋へ入ろうとする私を、ミノ介は凛とした姿勢で遮りました。 「どうして?」 「…………」 しかし、その理由までは語ってくれませんでした。だからと言って体育の評定が万年最底辺の私にはミノ介を押しのけるだけの体力はありませんし、そこまでしてミノ子を見たいわけではなかったので、仕方なくそのままリビングで漫画でも読みながら兄さんの帰りを待つことにしたのです。 「あ、そうだ、ミノ介。クッキー食べる?」 「いえ、お心遣いは嬉しいのですが、拙者は……食べられないので」 「そう? 甘いの苦手なら、おせんべいもあるよ?」 「…………」 ミノ介は、申し訳なさそうに首を横に振るばかりでした。 晩御飯の支度――ちなみに当番制なんです――をしなきゃいけないという時間、急にミノ介の触覚がバサバサと震え始めました。すると何事かと思う間もなく、兄さんが大学から帰ってきたのです。 「……失礼、部屋を間違えました」 ミノ介と目を合わせた兄さんは、持ち前の事なかれ主義を発揮して、早々に踵を返していきました。 「いやいや、待て待て。ここは確かに僕の部屋だぞ。正確に言うならば、僕と妹の部屋だぞ。おかしい。おかしい」 二十秒後に戻ってきた兄さんは、ミノ介と私を交互にじっくり見てきました。そして何故か合点がいったような顔をしました。 「あ、ああ、なるほど。こりゃお邪魔しましたー」 「ちょっと、兄さん。ちょっと」 誤解されるのは嫌ですし、今度はそのまま帰ってこないような気がしたので、とりあえず呼び止めました。兄さんをミノ介の前まで引っ張りました。 「お帰りなさいませ、兄御前様(あにごぜさま)」 「えっと、ここは……お前にお兄さんと呼ばれる筋合いは無い、でいいのかな?」 「んー、やっぱり混乱してるわね」 しょうもないことを言って気を紛らわせようとする兄さんに、私は目の前の侍風の彼がミノ介であることを説明しました。 「なんでいきなり人間になったんだ?」 「存じ上げません。神仏の御心は測りかねます故」 「じゃあ、しょうがないな」 兄さんは原因についてそれ以上は深く追求しませんでした。 すると、やっぱりと言いますか当然と言いますか、兄さんもまたミノ子に会いたいと言い出すのです。ミノ子のことを毎日気にかけていたのは兄さんですからね。目の色が変わっていて、ちょっと怖く見えたのは本人には内緒ですよ。 「いくら兄御前様といえど……いえ、むしろ兄御前様だからこそ、この扉を開けるわけには参りません」 だけど、ミノ介は頑として退こうとはしないのです。 「なんでだよ。そこは僕の部屋だぞ」 「一日でよいのです。一夜で構わないのです。どうか、どうか、堪えてくだされ」 「だから、その理由を訊いているんだよ」 「理由は……申し上げられません」 私と違って兄さんは粘りましたが、ミノ介も引き下がりませんでした。 平行線が続きました。 少しずつ苛立ちを隠し切れなくなりつつある兄さんに対して、ミノ介は額を床に付けました。 「されども、これはミノ子のためなのです。兄御前様、どうか、ご理解くださいませ」 「そんなことを言われても納得出来ないよ。僕は待ち望んでいたんだ。来る日も来る日も、寝る前のお祈りは欠かさなかった。いつか僕の愛情が報われて、可愛い虫っ娘が僕の元に来てくれると信じていた。そして、今日がその日だ! 諦めてなるものか!」 兄さんが勢い任せでカミングアウトした願望に、私は内心でちょっと引きましたが、そこは突っ込まずに話を聞いていました。まあ、気持ちが全く分からないわけではないですからね。それにもし神様が兄さんの願いを叶えてくれたのだとしたら、文句を言える立場でもないですし。 「拙者には、ミノ子の気持ちが分かるのです。拙者は彼女を悲しませたくはないのです」 「悲しませる? ミノ介、お前は何を言って……」 そこで、兄さんは急に押し黙りました。そして、忘れてはいけない大事なことを思い出したような、焦りと後悔がない交ぜになった顔をしたのです。 「ミノ介。確認なんだけど、ミノ子はやっぱり雌なのか?」 「はい、左様でございます」 「ミノ子も、お前と同じように人間になったのか?」 「……左様でございます」 ミノ介が一際重たい返事をすると、兄さんはその場に膝を突いて頭を抱えました。 「兄さん、どうしたの?」 「そうか、そういうことか」 兄さんはミノ介の目的を把握したようでしたが、私はこの時点では何が何だか分かりませんでした。 「そうって、どういうこと? 兄さん、何を思い出したのよ」 「ミノムシは、蛾の幼虫だろ? だけど普通、雌は、蛾になれないんだよ」 ぼそぼそと語る兄さんは、本当に辛そうな顔をしていました。その表情は、ミノ介と同じに見えました。 「蓑を捨てて、外を飛び回れるのは、雄だけだ。雌は、成虫になっても、蛹から出ることが、出来ない」 私も、そこでようやく思い出しました。それでも何も言えず、ただ黙って続きを聞いていました。 「翅や肢は無くて、身体全体のうち、殆どは大きな腹が占めている。目も、口さえも無い。ただフェロモンを出して、雄を誘って、卵を産むためだけの機能しか、持っていないんだ」 嫌でも想像してしまいました。 昆虫として均整のとれた雄がミノ介のように五体揃った姿だとしたら、雌のミノ子はどうでしょう。 さらに、ミノ子がミノ介と同じように人間の心まで手に入れていたらどうでしょう。 ミノ子が兄さんのことをどう思っているかまでは分かりません。だけど好きにしろ、嫌いにしろ、どうでしょう。 こんなことを言うと差別になるかもしれませんが、そのときの私は確かに思いました。もし好きな人に、そんな姿になった自分を見られたら、きっと死ねます。 「兄御前様。妹御前様。どうか、お察しくだされ。ミノ子はまだ、成るや成らずやの境目で、とても移動には耐えられません。しかし明日、日が昇る前までには彼女を連れてここを発ちますので。どうか、どうか、ご理解のほどをお願い申し上げます」 ミノ介は触覚を男泣きに震わせ、改めて頭を下げました。 兄さんは肯定も否定もせず、ただ力無く俯いていました。 私は夕食の支度を進めました。だって、気まずかったんですもの。 私達が食事をしている間も、ミノ介はずっと正座をしたままでした。そうです。オオミノガの成虫は、ものを食べないのです。本来であれば口の無い雄のミノ介がああして喋っているのですから、もしかしたら雌のミノ子にも何か具わっているものがあるかもしれないと思えました。もちろん、希望的観測に過ぎないのですけれど。 晩御飯を食べても、テレビを観ていても、兄さんは口をぎゅっと閉じて何かを思い詰めた様子でした。嫌な予感はしていましたが、私にはどうすることも出来ないとも感じていました。 そしてとうとう、兄さんは事を起こしました。 「ミノ介、僕はお風呂に入りたいんだけど、パジャマを持ってきてくれるかな? 寝室に置きっぱなしなんだ」 「これは失敬。兄御前様、少々お待ちを」 ミノ介は振り返って扉を最小限に開けました。その一瞬の隙を狙って、兄さんは後ろから飛び掛かったのです。 「な、何をなさる!」 「このまま別れるなんて嫌だ! 僕は、ミノ子に会うんだ!」 侍風の男と平凡な大学生との揉み合いは、意外にも平凡な大学生が制しました。兄さんはミノ介を振り切って寝室へ滑り込んだのです。体勢を直したミノ介も後を追いました。 部屋の中の様子は、私には分かりません。私も行こうと思えば行けましたが、それをしませんでした。なんだか怖かったのです。鬼気迫る雰囲気の兄さんもそうですが、今にして思えば何より、自分が嫌な人間であるという事実を突きつけられるのを恐れていたのでしょう。ミノ子の姿を見たら、自分が彼女の立場じゃなくてよかったと安心してしまいそうで……。 中から、苦々しいミノ介の声が届いてきました。 「神様というものがいらっしゃるのならば、なんと残酷だ。どうして一介の虫芥(むしあくた)に過ぎない我々に、人の身と心を授けたもうたのか」 それから十数秒くらいの間を置いて、今度は兄さんの声がしました。それはとても穏やかに聞こえました。 「大丈夫だ。やっぱり僕の思っていた通りだよ」 「兄御前様?」 「ミノ子は、とっても綺麗だ」 「兄御前様……」 「ミノ介、彼女にそう伝えてくれるかい?」 「はい、必ずや」 兄さんはそれだけ言うと、パジャマと布団を抱えて出てきました。何故だかその顔は、本当に何故だか分かりませんが、人間の欲や煩悩の一切から解放された仏のように見えたのです。 逆に、ミノ介は部屋から出てきませんでした。 その晩だけ、兄さんは私の部屋で寝ました。結局のところ、ミノ子が具体的にどんな姿をしていたのか、互いに訊ねも語りもしませんでした。 夜が明ける頃には、ミノ介はいなくなっていました。そして兄さんの寝室には、ミノ子が蓑にしていたと思われる生糸のくずが散り散りに落ちていました。 それだけです。 あれから何も変わりません。兄さんはいまだに虫好きの平凡な大学生のままですし、せいぜい私が受験生になったくらいでしょうか。あ、そう言えば、寝る前のお祈りはもうやってないと言っていましたね。 本当にそのくらいです。私は、ミノ子を見なかったことを後悔してはいません。 ところで。 もし、兄さんと同じ立場になったとき。 もし、私と同じ立場になったとき。 あなたは扉を開けますか?
戻る