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作:ムラムラオ


 梅雨の時期独特の、湿気むんむんなある夜のこと。
 
 暑苦しくてたまったもんじゃない。そんな時は好きな虫の入った虫カゴを枕元に置いて寝るのが一番だ。そういうわけで、僕は何匹かのテントウムシが入った虫カゴをベランダから取ってきた。
 手元の懐中時計で照らすと、そこでは小さくて可愛らしいテントウムシがうじゃうじゃとうごめいている。背中の斑点を数えていたら、きっと快眠出来るに違いない。そう思って、僕はテントウムシ達を凝視する。
「いち……に……さん……し……」
 赤いテントウムシもいれば、黄色いテントウムシもいる。黒いテントウムシもいるし、白いテントウムシもいる。斑点が無いやつもいれば、あるやつもいる。うーん、個性的だ。
「……お兄ちゃん?」
 と、僕がテントウムシに夢中になっていたら妹がやってきた。どうやら起こしてしまったらしい。不機嫌そうな顔をして僕に近づいてくる。ヤバイ、怒られそうな雰囲気。でも、僕はこのテントウムシ達を置いて逃げられるような腰抜け野郎じゃない。ここは男を見せるべきだ。
「こ、こほん」
 僕は妹に体を向けて、静かに告げた。
「いっしょに見るか?」
「うん!」
 妹は薄明かりの中でも十分に分かるほど目をらんらんに輝かせ、虫カゴに飛びついた。何を隠そう、僕と同じく妹も虫が大好きなのだ。もう高校生なのにいい年こいて家でDSのムシキングをプレイしているが、いかんせん僕がその対戦相手をいつも務めているので何も言えない。お互い様ということである。
 妹は虫カゴをグワシとつかんで覗き込んだ。
「かわいいねー」
「あぁ、かわいいな」
 テントウムシ達は、カゴの中に入れられた葉っぱをよじ登り、そのてっぺんまで行くと羽を広げて飛び立つ。もちろんかごの中から出ることは出来ないのだが、その様子がとっても可愛らしいのだ。また一匹、白いテントウムシが葉っぱの上をよじ登って行った。そして、今にも飛び立とうとしたところで、妹が突然思い切りくしゃみを爆発させた。
「べふんっ!」
「うぉっ!」
 その華奢で繊細なラインの体からは想像も出来ない風圧が、僕とカゴの中のテントウムシ達を襲う。まさしくボンバーだが、兄としては早く胸がボンバーに近づいて欲しいと痛切に願うこの頃である。いつまでも中学生みたいな体型じゃ、世話になっている方も気が引ける。
「ご、ごめんなさい」
 鼻をずいずいとぬぐいながら、妹は転がったカゴを拾い上げる。もちろんそれも大事だが、吹き飛んだ兄に一瞥をくれてやってもいいのではないだろうか。妹の視線はカゴの中に釘付けである。そして、その顔がみるみるうちに驚愕の色に染まっていく。何事かと僕は起き上がって駆けつけた。妹はわなわなと震えながら、虫かごを乱れた布団の上にそっと置いた。
「ど……どうしようお兄ちゃん」
「落ち着け。お前のなだらかな丘のように落ち着いていくんだ」
「明日の朝飯抜きね」
 険悪な視線で僕に釘を刺してから、妹はカゴの中を指差した。別にギャグではないので悪しからず。
「ほら、この白い子が……」
「どれどれ」
 カゴの中を見てみると、さっきの白いテントウムシが底の部分でひっくり返っていた。他のテントウムシ達は突然の大惨事にも関わらず、飛ぶなり転がるなり受身を取るなりなんなりして危機を回避したのだろうが、この白いやつはどうやらそれができなかったらしい。恐らく、飛び立つ直前だったから反応出来なかったのかもしれない。なんとも気の毒な白テントウムシである。
 しかし、どうしたものか。
「うーん、ピクリともしないな」
「わ、わたし殺人犯になっちゃうのかな?」
「殺虫未遂だな。その内このアパートに虫の警察がやってくるぞ」
 腕を組んで冗談混じりに言ってやると、妹はどんどん顔色を青白く染めていく。どうやらマジにとったらしい。冗談が通じない所が僕の妹の欠点であり、ウィークポイントでもある。間違えた、チャームポイントだ。オロオロしている姿を見ているとさらに嘘をつきたくなるが、瀕死の虫を目の前にしてそんな茶番をしている場合ではない。
「冗談冗談。ここは人間界だぞ」
「お兄ちゃんの頭をダンクシュートしたくなってきちゃった」
 中学時代に女子バスケ部だった妹の洒落にならない洒落に、僕はちょっとビビる。中学時代はクイーン・ジョーダンと呼ばれていたらしいので、僕の頭はフリースローで百発百中で決められてしまうのだろう。いや、ダンクシュートじゃフリースローは出来ないか。
「とりあえず、爪楊枝でつついてみるか?」
「持ってくるね」
 立ち上がって、妹は狭い台所へと向かった。親に追い出され、このアパートで二人暮らし始めて早一年だが、なんだか居心地が良くてしょうがない。両親はもう勘弁してやるとメールをくれたが、社会経験を妹に積ませたいと返信しておいた。ちなみに妹は何も知らない。僕が連絡係となっているので、妹にはメールが来ないのだ。情報弱者とは末恐ろしいものである。と、妹が爪楊枝のケースを持ってきて、そこから一本取り出した。
「これでいいかな?」
「あぁ、もう少し長いといいかもしれない」
「伸びろ、如意棒!」
「セロテープがあるから、これ使え」
 小さな爪楊枝を突き出したまま固まる妹のほっぺたに、小切れにしたセロテープをくっつけてやる。なんだかたいそう悲しそうな顔をしているが、こっちはそれどころではない。可愛いテントウムシの命がかかっているのだ。
「で、できたよ……」
 ぐずぐずいいながらも、妹は三本の爪楊枝をくっ付けたシロモノを差し出す。僕はそれ受け取った。
「よし。それじゃ白テント救出作戦開始だ」
 そう言って、僕が爪楊枝を虫カゴの中に突っ込んだ瞬間。
「ならぬ!」
 部屋の中に、大きな声が響いた。
「きゃっ!」
 妹は驚いて、僕の寝ていた布団の中に潜り込んでしまった。おしりをこちらに突き出しているのは何か意図するものがあるのだろうか。いや、ないのだろう。僕が爪楊枝を持ったまま硬直していると、さっきより少し小さな声で、もう一度声が聞こえてきた。
「おぬし。待たれい」
「待ってるよ」
「うむ。今そちらに行く」
 一度声が途切れると、ベランダに影が映った。なんだろう。
「すまん。開けてくれないか」
「なんだ、開けられないの」
「人間ほどの力は持ち合わせておらんのでな」
 不審に思いつつも、僕は爪楊枝を置いてベランダへと向かった。すると、そこには白い着物姿の白髪の女性が立っていた。とりあえず刃物や殺意を持っている様子では無かったので、僕はベランダを開けた。
「どうぞ」
「邪魔するぞ」
 女性は着物をすりすりと動かしながら、すり足で音もなく部屋に中に入ってくる。どこに行くのかと思えば、虫カゴの所に一直線だった。僕はベランダを締めて彼女の後を追う。
「あの、虫の警察か何かでしょうか」
 僕が尋ねると、布団の中から妹の悲鳴が聞こえた。さっき冗談だと言ったのに、まだ信じていたのか。なかなか信心深いようで感心だ。
「……なんだそれは?」
「あ、なんでもないです」
 誤魔化して、僕は女性が座ったのでその横に座る。女性は虫カゴの中を熱心にのぞいていた。なるほど、この人も虫が好きなのか。ならきっと良い人に違いない。そう思っていたら、女性は何やら虫カゴに向かってぶつぶつつぶやいている。ちょっと奇妙だが、僕だってよくやることなので、変人だとは思わない。虫好きの小学生なら一度はやったことがある通過点みたいなものだ。
「ふむ……」
 女性は虫カゴから顔を上げて、神妙な顔つきになる。
 そして、頷いた。
「間違いない」
「何がですか」
「こやつは、わしの子供じゃ」
「そうですか」
 僕は女性の隣から虫カゴを覗き込む。まだあの白テントウムシはひっくり返ったままだ。大丈夫だろうか――――って
「ええっ!?」
「なんじゃ、やっぱり驚くのか人間よ」
「ええっ!?」
 ワンテンポ遅れて、妹が布団の中から顔を出した。いや、僕がワンテンポ遅れたんだから、妹はツーテンポか。
「おぬし、凄い汗じゃの」
 白髪の女性は珍しそうに妹の顔をじろじろと見つめる。妹は汗を激しくかいていた。なにしろバスケの試合中にツーテンポ遅れるだなんて致命的に違いない。冷や汗になるのも無理はないだろう。まぁ、どうせ布団の中で蒸れただけなんだろうけど。
「おい、顔洗ってきたほうがいいんじゃないか」
「うん……そうする」
 言って、妹は再び台所の方へ行ってしまった。なんだかせわしない奴である。見届けてやってから、僕は女性に体を向け直した。
「つまり、あなたはそこの白いテントウムシの母親ってことですか?」
「そうじゃ。随分前に生き別れになっておったのだが、まさかここでこうして出会えるとは思わなんだ。ここいらで羽を休めて正解だったのう」
 言って、女性は足を伸ばして横になる。よく見てみると、顔立ちは20代前半といったところだろうか。綺麗なお姉さんという印象だ。お姉さんに「羽は伸ばさなくていいんですか」と聞いてみようかと思ったけど、自重することにした。
「えっと……助けてあげなくていいんですか?」
「うぬ?」
「あなたの子供がひっくり返ってるんですよ」
 僕がカゴの中を指差すと、女性はあぁそうじゃな、と体を起こした。
「まぁどうせ、寝ているだけだと思うがな。出てこいテン子」
 女性が虫カゴの中に声をかけると、なんと白いテントウムシが消えた。
「おおっ、凄いマジックですね」
「マジックとはなんぞや」
「文字を書くときにキュッキュッと騒がしい文房具の一つです」
「騒がしいか……まるで蝉のようじゃの」
 嘘をついてみたら軽くスルーされてしまった。僕はちょっと悲しくなってしまう。そうして悲しみにくれていたら、突然背中に何かがのしかかってきた。
「うおっ!」
 この期に及んで妹が悪ふざけでもしでかしたのかと思い、僕は振り返って何か文句を言ってやろうと口を開いた――――が。
「すー……すー……」
「な……」
 僕の背中では、すぐ横にいる女性と同じ白い着物を着て、白髪の女の子がぐっすりと眠りこけていた。
「ほれ、やっぱり寝ておった」
 さも当たり前のことのように、女性が笑う。
 とりあえず僕も愛想笑いを浮かべてから、この子重いんで下ろしていいですか、と尋ねてみる。
「わしに任せよ」
 言って、女性は僕の背中のテン子ちゃんを軽々と引き剥がしてしまった。さっき力が無いとか言っていたのは嘘だったのだろうか。とりあえず体が軽くなったので、僕は体を少し布団に預けた。女性は自分の太ももの上にテン子ちゃんの頭を乗せて、優しくなでている。
「大丈夫なんですか」
「もちろんじゃ。むしろ前より少し太ったかの。よかよか」
「むしろ、それってまずいんじゃ……」
 丁度妹が戻ってきたので、僕は太ったら嬉しいかと尋ねてみた。すると、妹は僕の顔に手元の枕を見事に命中させて怒鳴った。
「昼も飯抜き!」
 それから、ちょっと朝のランニング行ってきますと言って出て行ってしまった。僕はどうやら妹の運動不足解消に一役買ったらしい。だが僕も断食をして、一緒にダイエットに強制参加しなくてはならないのがちょっと不服だ。まぁ最近太ってきたとは思うので、ポジティブに考えてよしとしよう。
「ふむ……お騒がせしてしまったようじゃの。つがいの仲は大切じゃぞ。子を作る時になって困らぬように気を付けることじゃな」
「な、なんだか妙な勘違いをされてませんか…‥?」
 僕が誤解を解こうとあたふたと手を振ったが、そんなことは気にもとめず、女性はテン子の顔をぱしぱしと叩いた。
「起きるのじゃ、テン子」
「ううん……」
 すると、目を閉じてすやすやと眠っていたテン子ちゃんがゆっくりと瞳を開いた。まだ随分と幼い顔をしている。
「世話になったの」
「あれ、行っちゃうんですか?」
「うむ。丁度雨もやんだ」
 ベランダに向かって歩きながら、女性は言った。寝ぼけ眼をこすりながら、その後をちょこちょことテン子ちゃんがついていく。うん、文句なしにかわいい。
「またいつか、ここに立ち寄る時があるかもしれん。その時はよろしく頼むぞ」
「あ、はい。虫大好きなんで、もういつでも歓迎です」
「心強いの」
 なっはっは、と力強く笑ってから、女性は僕の開けた窓の隙間からベランダへと躍り出た。テン子ちゃんは少し立ち止まって、僕の方をチラチラと恥ずかしそうに見てくる。なんだろう。もしかして髪の毛が大変なことになっているのだろうか。僕が髪を両手で撫でながら待っていると、彼女は小さな声でささやいた。
「あの、ごはんおいしかったです」
 ちょっと頬を赤らめながら。
「ありがとうございますっ」
 小さく頭を下げて、テン子ちゃんはベランダへと出て行った
「あ……」
 僕はちょっとの間、呆気にとられていた。大げさだが、告白された時の感覚に近いのだろうか。もちろん僕は彼女いない歴イコール年齢の健全な男子なので、想像するしかないのだが。

 気付いたら、二人とも消えていた。
 僕は思わずベランダへと出てみる。
 遠くの方の空が、少しづつ明るくなっていく。
 もうすぐ夜明けのようだ。
 と、真下から声が聞こえた。

「お兄ちゃーん」
 妹だった。
「おっ、頑張ってるじゃん」
 ジャージ姿の妹は、少し前かがみになって僕の方に手を振った。
「お財布ちょうだい」
「おう、まかせとけ」
 僕は机の上にあった財布を手にとり、それを妹へと放り投げた。
「ありがとっ!」
 難なくキャッチして、妹は走り去っていく。

 ――――どうやら、飯にはありつけそうである。

 終

  

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