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作:黒兎玖乃


 僕は、驚愕した。

「……………………」

 これは一体どういうことだ、と言うのがここでは正しい。しかし、今の僕の頭ではそんな簡単な感嘆の言葉さえ出てこないようだ。名状しがたい衝動が、今、僕の中には走っているはずなのに。はは、ははは。喜んでいいやら驚いていいやら、はたまた悲しんでいいやらもしくは漏らしていいやら。いや漏らさないけど。
 人間生活を送ることはや何十年、といってもそこまでないがこんなに驚いたことは今だない。かつてない。小学校の徒競走で自分が転んでビリになったと思ったら他の全員もこけて結果劇的な勝利を収めた古き良き思い出よりもサプライズ。下手したらこれは人生最大級。明日死んでも後悔しない。いやいや冗談。まだまだ死にたくない。
「わほー」
 と、声を上げたのは僕ではない。同居している妹でもない。妹は今外出している。ということは、僕ではない、もう一人の人間だ。
 そう、人間。人間がいるはずはないのに人間。人間でない人間。そうなると人面犬か犬体人の二択となるが、残念ながらどちらも当てはまらない。
 では、一体何だというのか? そう、答えは一つ。


 ――――突然変異。


 僕は昔から、生き物を飼うことが好きだった。クラブ活動も全て生物部で一貫。生き物が好きなのは家族共通で、僕の家は生ける博物館と言えるほど生き物で満ち満ちていた。ん、博物館も家も生き物じゃないか。まあアメリカンなジョークってことで受け入れて欲しい。言うなればアジアンジョーク。ここはジョークアヴェニューDEATH。HEHEHE。
 というわけで、僕はたいそう生き物が好きなのだ。
 例えば犬。噛まれることなど日常茶飯事だったけど、今ではそれも良いおもひで。んなわけあるか。
 そして猫。猫は人より家に懐くというけれど、僕は真っ向から反論する。家には猫は懐かないし、僕にも懐かない。懐いたのはかつおぶしだけだ。(僕が)にゃんにゃん言って甘やかしていた僕の青春を返してほしい。
 そしてインコ。セキセイインコ。色んな言葉を覚えさせようとしたのが懐かしい。結局、妹の前で思いっきり18禁ワードを大音声で発してしまったため、泣く泣く実家に送られていった。去り際に「さようなら」って言ったら「クソワロタ」と返された。このセキセイインコめが。セキセイウンコ!

 そんな中、僕の意思には反さない生き物がたった一種類だけいた。

 それは、虫。インセクトと称される虫。六本脚だよ! 全員集合的な虫。
 初めて飼ったのは、もう何年も前の夏休みに捕まえたカブトムシ。僕のあげたゼリーは残らず平らげてくれたし、友達のカブトムシやクワガタやコオロギと戦わせてもほぼ全勝していた。一回だけコオロギに負けてしまったのが悔やまれる。
 何よりも虫は犯行、じゃなくて反抗を見せない。今まで飼った生き物は全部何かしらの手段で僕に反抗してきたのに、虫だけはぼくにいつまでも従順だった。これだ、と瞬時に思った。
 僕は、虫とともに生きていくことを決めたんだ。

 しかし、年老いて生き物を飼うことに抵抗が窺えてきた両親は、「これ以上飼うことは許さない、ましてや虫などもっての他」と一蹴した。確かに昔、虫を飼っていたときも、知らず知らずのうちに僕は影でこそこそと飼っていた。その後で知ったのだが、うちの両親は大体の動物は好きなのに、虫だけは極度に嫌うのである。同じ生き物なのに、何故だ。何故なんだ。あの身体の裏のぷにぷにしているのが気持ちいいのに。
 幸い、妹も虫が好きだったため、妹は僕に味方してくれた。しかし子ども二人が賛成しても親は首を縦に振らなかったので、僕は家を出て行くことに決めた。両親は制止したが、妹も賛同して僕と妹は揃って家を出て行った。
 その時は多少は後悔していたが、今はまったくもって後悔していない。現在は別にいがみ合っているわけじゃないし、いつか独立せねばならないというのも含めて離れて暮らすのを許してくれている。正直、安堵が隠せない。仕送りも貰っているし、時々実家には帰っている。別に親と仲が悪くなっているというわけじゃないので誤解しないでいただきたい。
 閑話休題。
 現在は虫を飼いながら妹と二人で共同生活中である。今は妹は高校に行っているため、家には僕一人だ。なので、現在ぼくは飼っている虫に餌をあげるために用意をしていた。ん、僕? 僕も一応大学には入っているけど、別に行く目的はないから時々生物サークルに出るだけなのさ。いわゆるニートに限りなく近い大学生だが、決して友人が少ないわけじゃない。やってきたメールは必ず返信しているし、誘いを受ければ断らない。大学にはあまり行っていないけど友人がいないわけではないのだ。間違えないように。
「むはー」
 そしてもちろん今の声も僕じゃない。僕には奇声を上げながらぶつぶつと物事を考えるなんて性癖はない。もちろん何かしらがあって奇声をあげたとしても「むはー」とは言わない。むはー、むっはー。うん、響きは好きだ。むはむは、むっはー。むはむはむ
 とりあえず今一度状況を整理する。僕は妹を駅まで見送った後、暇を持て余していた所で餌の時間に気付き虫に餌をやろうと準備をしに家路について玄関の扉を開けた。
 そしたら、だ。俄には信じがたい、のだが。

「あー良く寝た寝たー」

 見るも可愛らしい美少女がリビングに座っていた。しかも、まず僕が餌をあげようと考えていた虫、カマキリの装備「カマ」を携えて。大きく伸びをしている。いや可愛い、けど。

 やはり僕は、驚愕した。
 何にせよ、いきなり自分が大事に飼っていた虫が美少女に変貌したのだ。確かに「わーいいきなり美少女が我が家にやって来たーうれしー」という感情はあるのだが、今はそれを驚嘆が打ち消していて、ほぼ無心の状態に陥っている。というか、何も考えられない状態だ。同じか。それにしては色々考えてるじゃねえかこのロリコンとかいう突っ込みは無しの方針で。
「お腹空いたなー」
 目の前の美少女が目を擦りながら呟いている。僕の存在には気付いているのかいないのか、新緑色をした髪の奥に輝く碧眼をしぱしぱさせながら、ぼーっとどこか遠くを見つめるようにしている。それはまるで……そう。寝起き少女。くそっ、可愛い。めちゃくちゃ可愛い。
 だが、そんな事よりも考えなければならぬことはたくさんある。
 まず第一に、この少女の正体だ。確かに目の前にちょこんと座っている少女はさらさらとした緑のストレトヘアーで、頭には二本、ぴょんと触角的な何か細いものが生えている。伸びている。重力に従って湾曲している。それで、ここが一番重要な所。確かに制服のようなものを着ている上半身やどうしてか水色のスカートを穿いている下半身も重要なのだが、特筆すべきはその上腕部。
 先述したとおり、「カマ」が付いているのだ。ぎらり、と美少女の身体には似つかわしくない、ああでもラノベ的には美少女に兵器的なものっていうのは似合うのかな、そんなカマが付いている。オカマではない。鎌である。上腕部にオカマが付いていたらそれはそれで鎌より恐怖だ。まだ殺されたくない。僕は立派なパシフィストだ。
 まとめると目の前にいるのは、カマを兵装した少女、「カマキリ少女」。


 とりあえず、何も出来ないまま時間が過ぎている。壁にかけてある柱時計の音が、カチ、カチ、と声を上げている。まるで時間を無駄にするなと、価値、価値、と主張しているようだ。時は金なりと言ったところか。俺の青春時代を返却するから金を下さい、なんてことは無理なんだろうな。
 いやだからそんな事を考えている場合じゃない。
「んむー?」
 と、甘い声に釣られてふと少女の方を見ると、思いっきり目が合った。可愛い。まずい。二つの意味でヤバイ。確かに可愛いけど、もしもいきなり襲われたりしたらどうだろう。もしかしたら僕の思考を読んだ上で僕の殺人を謀っている美少女殺人鬼かもしれない。その響きでどこぞの殺人探偵を思い出した。読みたいな。月見月、あれ、下の名前何だっけ。
「あ、もしかしてご主人様ですかー?」
 またもや不意にやってきた少女の声。なぬ? 僕がご主人様? 何だ、空からシスターじゃなくてカマキリ美少女が降ってきたというのか? それはなんと言う幻想をぶち壊す? とりあえず、返事はせねばなるまい。
「ご主人様って、それは僕のことなのか?」
 声を抑えて、水面も震わさないほどの小さな声で返事をする。
 するとカマキリ美少女はカマをすり合わせて、口元を綻ばせる。うわー、凄く可愛い。
「もちろんです! あなた様以外に誰がいるというのですか!」
 どうやら、「僕の飼っていたカマキリが美少女化しちゃった」という推理は間違っていなかったみたいだ。とりあえず安堵の溜め息を吐いたと同時に、瞬く間にもう一つの疑問が浮かび上がってくる。

 どうして僕の飼っていたカマキリが、ある日突然美少女に擬人化するような数奇なことが起こったのだろうか?

 何か、特殊な薬品でも作ったか? いや、残念ながら僕はそんな高等な技術は持ち合わせていない。
 だとしたら、カマキリがコスプレ? いや、意味が分からない。
 となると、実はコレは全て幻だったり? ん、それはもしかしたら可能性があるかもしれない。ためしに自分の腕をつねってみる。ぐにーん。痛い。どうやら夢でも幻でもないようだ。
 だとしたら、本物? 一体どうやって?
「訊ねたいんだけど……君は僕が飼っていたカマキリなのか?」
 その所以は、本人に聞くのが一番早いだろう。取りもあえずは、本人(虫)なのか確かめてみる。
「はい、当然です! ご主人様のお世話になっていた、カマキリのカマ娘です!」
 両手でボンボンを持つようにカマをそろえて笑うカマキリ少女。可愛い。ってそうじゃない。僕と妹しか知らない名前を知っているということは、本人(虫)に違いない。
 本人(虫)であることが確認出来たなら、もちろんその後に聞くことは。
「一体どうして、人間の姿に?」
 最大の疑問である。これはいくつかのの問いを含んでいるのだ。
 どのようにして人間になったのか、という手段。そして、何故人間になったのか、という行動理由。さらにはいつ人間になったのかという、時刻。5W1Hは一通り把握しておかなければならない。
 カマキリ美少女――――カマ娘はしばらく悩むような仕草をしたかと思うと、手振りを交えながら話し始めた。
「えっとですねー、ご主人様に日頃の感謝を伝えるために何か出来ないかなー、と思っていたら気が付くとこの姿になってましたー!」
 なんてご都合的な。生物の進化過程を大幅に飛躍している。もっとも、虫が人間に進化するような進化過程は考えられないが。もしあるとすれば、中間はザ・フライのような生き物になるだろう。気持ち悪い。
 要するに、カマ娘は僕が日頃からちゃんとお世話をしていたおかげで美少女に擬人化したということらしい。ううむ、これこそsneg。僕のオタクな友人に話したら興奮して踊りだすに違いない。
「それで、僕は一体どうすれば?」
 それこそ今もっともな質問である。とりあえず妹が帰ってくるのは夕方なので、それまでは僕一人で彼女の面倒を見なければならない。もしかしたら妹が拒絶するかもしれない、という不安もあったが、妹も虫は好きだし何より「妹が欲しいなー」とか言っていたのできっと大丈夫だと思う。
「そんなの、決まっているじゃないですか!」
 僕の質問に対して、カマ娘はあたかも当然だと言い切るように。

「私とあんなことやこんなことをしましょう!」
「やめたまえ! その語弊のある表現をやめたまえ!」
 カマを持って突撃してくるカマ娘。
 え、何。あんなことやこんなことって僕を殺したり嬲ったりすること!? ダメだ、いくらなんでもそれはヤバイ。たとえ殺意があるなしにも関わらず生命の危機だ。そもそもカマキリのメスはオスを食べるとか言ってなかったか? いや僕はカマキリじゃないけど。
「わおー」
 と言って飛び掛ってくるカマ娘。僕の両側に逃げ道は…………ない。玄関だもの。後ろには玄関扉があるが、残念ながら内側からは引かなければ開かず、そして僕は今扉にぴったり背中をつけている。つまり振り返って扉と距離をとって開けた瞬間にはカマ娘の両腕が僕の背中にグサリ。ご免被る。といっても、被りは逃れられない。

 あれ、絶体絶命?

「あっははははははは!!」
 人間の恐怖は限界を超えると笑い声に変わるという言い伝えがあるが、今実際にそれを体感している。全身が笑って、身体が動かない。口からは渇いた笑い声がだだ漏れだ。
 カマ娘の足が、床を離れる。ちなみにカマ娘の肌は緑色かと思いきや、つやつやすべすべもっちりな肌色だ。触ってみたい。しかし僕に幼女の身体を触るような性癖はない。僕は健全なニートだ。
 また話が逸れた、とか言っているうちに。
 カマ娘の両腕が、僕の首に回される。ああもう死んだ。短い人生だったな。くっそう、走馬灯がいくつも浮かび上がって……………………
 …………こない。思い返すようなこともなかったのか、僕。つまらない人生だった。




「ご主人様ーっ」
 語尾に「♪」をつけそうな勢いのカマ娘の声。
 あれ? 僕生きてる?
 え、いや、でも僕の首には鋭利なカマ娘の両腕が。

 …………ない。ないとは如何に?
 その代わり、僕の首には温かなものが巻きつけられているような感触がする。例えば、美少女に抱きつかれて首元を触られたような。
「みゃはー」
 つまり、今の状態である。一体どういうことなんだろう。
「か、カマ娘ちゃん。カマは一体どこにいったの?」
 カマキリとしてはカマがないと名前がただの「キリ」となってしまい、どこぞの口うるさいおばさんと間違われかねないので、命の危険に晒されようと聞く必要がある。
「カマは自由に出し入れできるんですよー。じゃないとご主人様に抱きつくことも出来ませんし♪」
 後半自重。カマキリってカマの出し入れできたのか。コレは新しい発見だ、メモメモっと。脳内メモ完了。
 さて、色々と話を聞くためにまずは僕に抱きついているカマ娘を降ろそう。僕はロリコンではないのだが、こうも抱きつかれているとどうもドキドキしてしまう。ふかふかとした柔らかい体の感触。漂ってくる甘い香り。僕はロリコンじゃない。ロリコンじゃなくてもそうなるか。
 というわけで、カマ娘の身体を掴んで降ろして…………
「んー」
 何かと思えば、僕の顔にカマ娘の顔が迫っていた。はは、なんだ。ただそれだけの話…………


 ってそぉぉぉぉぉい!!
「わあ」
 危うく僕の顔と重なりそうだったカマ娘の顔を急いで離し、カマ娘の身体を掴んで床に降ろす。うん、背の高さは130、40センチくらいだろうか。小学生の少女、というのが相応しいだろう。ちょこんとしていてカマキリとは思えないほど可愛い。いや、カマキリも十分可愛いけど。
「むー、何で離すんですか! ご主人様のいじわる!」
 頬をぷくっとふくらませて怒り口調でいうカマ娘。可愛い。オタク的に言うなら、萌え。
「ご主人様と誓いの口付けをかわさなければ、永遠に結ばれないではないですか!」
 いやいやいやいや。いつから僕はカマキリを配偶者として受け入れなければならなくなったのか。種族間差別は無しでいったとしても、色々と問題が生じる。
 まず第一にどう見てもカマ娘は小学生だ。カマキリ的な年齢からしてもまだ三年ほど。なのでまだ結婚適齢期ではない。到底ない。どこかのロリコンで閃かない探偵がいれば、すぐに飛びつくことだろう。
 他にもまだまだ問題はある。僕に結婚相手の選択権がないことや、そもそも口付けさえすれば結婚できるというわけじゃないこと。しかしそんなことはどうでもいい。根本的なことから突き詰めなければ。
 僕は靴を脱ぎちらかすと、むくれるカマ娘の肩に手を置いてそのままリビングへと連れて行った。
 部屋にあるカマキリの虫かごには、何も入っていない。
 僕は改めて、驚愕した。


     ○

「ご主人様ー?」
 僕のすぐ右隣でカマ娘が僕を呼ぶ。僕はカマ娘の方を向いて頭を撫でた。
「ひゃふぅー」
 カマ娘が気持ち良さそうに目を細める。頭を撫でてもらえるのは嬉しいらしい。カマキリというより猫みたいだ。凄く可愛らしい。だけど僕は断じてロリコンではない。確かに可愛いけれども、こんな年下相手のカマキリに好意を抱いてはいけないと思う。年の差結婚とかあるけど、あれはもう少し未来の話だ。40歳と30歳、20歳と10歳前後では話が違ってくる。後者では犯罪になりかねない。
 僕はそんな事を考えながら、パソコンのディスプレイと睨めっこを決め込んでいた。
 映し出されているサイトは、「虫 突然変異 原因」の検索結果が表示されたグーグル先生。四万件も検索結果は出てきたが、このケースの具体的な原因を述べているサイトは見つからなかった。そりゃそうだろうな。
 一番最後に「美少女」を付け足してみる。『昔のゲームっが昆虫に触れただけで死ぬ件について』。主旨がずれている気がするしっかりしてくださいグーグル先生。ならばいっそのこと、「飼っていた虫が突然美少女になった件」と入れてみる。『男だけど、イケメンと同棲することになった』。どうでもいいわ。何一つかすってないじゃないかこのゴーグルめ。でもちょっと気になるな。後で読んでみよう。
「ご主人様ー、おなかすきましたー」
「ん、もうそんな時間か」
 時刻は正午を五分ほど回ったところ。なるほど、そう考えると少し空腹感が湧き出してきた。よし、調査は後回しにしてとりあえずは昼食タイムとしようか。
 僕は冷蔵庫の前に立って扉を開ける。さて、何にしようか。
「カマ娘ちゃんは何が食べたい?」
「ご主人様の嗜好にお任せしまーすっ」
 小さな手をを元気にあげてカマ娘は言う。カマ娘の手は小学校……中学年? 高学年? まあそれくらいの女の子のそれ相応につやつやすべすべもっちりである。ロリコンならばなめずりまわしたくなるだろう、きっと。再度確認するが僕はロリコンじゃない。
 それは置いといて、昼食の話。冷蔵庫の中に即席で出来るものはなく、料理しようにも材料があまりなかったので、冷蔵庫の上においてあるビニール袋の中から買い置きのカップ麺を取り出す。カマキリって別に猫舌じゃないよね。カマキリだし。
 二人分のカップ麺の蓋をびりびりと開け、ポットのお湯を注ぐ。……っと!
「熱っち!」
 手が滑って、自分の手にかかってしまった。熱い熱い。右手をぶんぶん振る。意味はない。
「だ、だいじょぶですかー!?」
「う、うん。大丈夫。心配しないで」
 本当は結構痛いんだけど、カマ娘を心配させるわけにはいかない。
 僕の声を聞きつけて、カマ娘がぱたぱたと駆け寄ってくる。両手をグーにして顔の下にくっつけている。なんだか仕草が全て可愛い。本気で妹にしたくなってきたのは内緒だ。と言うか、妹に相談したらあっさりOKしてくれそうな気がする。
「ちょっと、手を出してみてください」
「うん?」
 言われるがままに、僕は右手を差し出す。人差し指の辺りが赤くなっている。ひりひりと皮膚が攣るようで痛い。もう少ししたら水ぶくれになってしまいそうだな。あれ痛いんだよな。
 カマ娘が僕の手をまじまじと覗きこんでいる。一体何をしているんだろう。

「はむ」

 と、カマ娘の声がした直後。
 僕の右手人差し指は、カマ娘の口の中へと吸い込まれた。


 …………えっ? 
「ちょちょちょちょちょカマ娘ちゃん!?」
 あまりのことに、状況判断が一瞬遅れてしまったみたいだ。なんて落ち着いて考えてる場合じゃない。的確に情景描写をすれば、今現在僕の指はカマ娘に吸われている。
「はむむぅ……」
 ふひゃあ、僕の指がカマ娘の口の中に捕らわれてしまった。温かくて不覚にも少し気持ちいいカマ娘の舌が、僕の指を巻きつくようにして舐める。や、ヤバイ。コレは本格的にヤバイ。気持ち良いけど本格的にヤバイ。手を動かそうとしてもカマ娘の
「だ、大丈夫! もう大丈夫だからカマ娘ちゃん!」
 と言って、カマ娘の頭を優しく掴んで優しく引っ張る。が、カマ娘の口は離れない。
「むむぅー」
 カマ娘が上目遣いで「別に良いじゃないですか」と言いたげな笑顔で僕を見上げる。その視線は危ない。あと、決して良くはない。いや確かに温かくて気持ち良いけど、その前に人間として大切なことを見落としている気がするんだ、僕は。
 そう考えてる間も…………ひゃう。カマ娘の舌がぺろぺろと僕の患部を愛撫するように舐める。指全体をマッサージするようにカマ娘の口内が僕の指を包み込み、善導運動か、何だろうか。ゆっくりと動いて僕の指の神経を刺激する。本気でヤバイ。
「っぷはぁ」
 と、ようやくカマ娘が口を離してくれた。体内時計で約一分間。なんだか頭が放心状態。今僕は何をしていたんだっけ。イケメンと同棲? いや違う、昼食を作っていたんだった。で、ポットのお湯が指にかかって………………今に至る。
「これで大丈夫です、ご主人様っ!」
 満面の笑顔を浮かべるカマ娘。確かに、痛みが大分ひいた気がする。というか、あまり痛みを感じない。なんだ、カマキリの唾液って治癒効果があるのかな。自分が何を言っているのかが分からない。頭がぼーっとして、上手くはたらかない。どうやら、治癒効果だけじゃなく僕の意識を奪う効果もあるようだ。
「あれ? ご主人様? そんなにお顔を赤くなされてどうしたんですか?」
 カマ娘にそう指摘されて、僕は慌てて自分の顔を鏡で確認した。
 確かに赤い。茹で上がった海老のように赤い。僕がまだまだ純情だったことには安堵の溜め息が出るけど、僕は小学生の少女にこんなことをされて赤くなっているのかと思うと何だか恥ずかしくなってくる。
「も、もしかして顔も火傷なさったんですか!? ちょっと顔出してみてください!!」
「違う! 赤くなっているのは火傷したからじゃないんだよカマ娘ちゃん!」
「いいから見せてください!」
「良くないよ! 何をされるのか大体検討付くから尚更だめだよ!」


 結局、落ち着いて昼食を食べられたのは、もう少し後のことだった。



「…………ごちそうさま、と」
 僕はカップ麺のスープを飲み干すと、中の汁が残らないように丁寧に拭いてからゴミ箱に捨てる。じゃないと後々臭くなる。これが我が家、と言っても妹との間の取り決めである。カマ娘はと言うと、おなか一杯になるとあっという間にすやすやと眠りについてしまった。寝顔が超絶可愛い。そろそろ本気で妹にするか考えても良いかもしれない。いやいや何を言ってるんだ僕は。
 気を取り直して、再びぼうと光るディスプレイに向き直る。画面にはイケメンと同棲が表示されたままだった。気になるから、後で読むことにしよう。僕は新しくタブを開くと、検索窓を開く。カーソルを窓に合わせてクリックし、さて打ち込もうとキーボードの上に手をかざしたときに、思った。

 何を検索すればいい?
 もっともな疑問だった。最初に思いついたのは、某巨大掲示板などに「家に帰ると飼っていた虫が美少女になっていたんだが」とスレ立てすること。が、どうせ「釣り乙」などの反応を返されるに違いない。切実に書き込めばもしかしたら反応してくれるかもしれないが、きっと根本的な解決方法は見出せないだろう。ならば、どうする?
 次に思いついたのが、大学の生物サークルに相談してみる。基本良い人ばかりだし、中にはかなり生物に対してマニアックな人もいる。そこら辺の教授よりかは遥かに知識があると、講師が直々に言ったらしい。そんな人に相談すれば何かしらの解決案が出るかもしれない。……と思ったのだが、現実的に鶴の恩返し的な感じでカマキリが美少女になったなんて、誰が信じ、そして謎を解明してくれるだろうか。




『きっとそれは擬人化症候群だね』
「そんなものがあるんですか!?」
『症例は少ないようだけれど、確かに存在するみたいだよ』
 携帯電話の向こうからあっさりと答えが返ってきた。会話の相手はかのマニアック先輩であり、生物サークルの部長でもある。
 中でも虫に対して詳しいことから、僕たちは敬意を表して「ファーブル先輩」と称している。
「ファーブル先輩が言うんですから、間違いはないと思いますが……」
『やはり俄には信じがたいだろうね。擬人化なんて二次元の世界でしか考えられないだろうから』
「まったくもってその通りです」
 ファーブル先輩は一片の逡巡もなく、つらつらと分かりやすく話していく。
『擬人化症候群……。日本に眠るオタクのパワーが許容量を越え、発生したとも言われる。症候群とはいうけど、別に病気ではないから心配する必要はないよ』
「あ、はい」
 突っ込むべきか、突っ込まないべきか。
 突っ込んではいけないと、第六感が警鐘を鳴らした。
『僕の情報が正しければ、擬人化症候群にかかった虫は人間と虫の姿を自由に変えられることができる。本当に珍しい症例だけど、そこまで心配する必要はないと思うよ』
「え? どうしてですか?」
『ん、それはだね…………』
 僕の訊ねに、先輩が少し言いよどむ。どうしたのだろうか?
『まあ、想像に任せるよ』
 任せられた。確かに何も心配はなさそうだけど、僕の想像力は決して豊かではない。
「あと、聞きたいことがあるんですが」
 もう一つ、重大な疑問が存在する。カマキリが美少女になった時点で、一番存在感の薄い疑問ではあるけれども、もっとも大切な疑問だ。

「寿命ってのは、どうなるんですかね」

 カマキリの寿命は長くても一年。だけど我が生物サークルでは冬でも暖房を欠かさないこと、出来るだけ気温を一定に保つことで長生きすることが可能であると証明された。現に、ファーブル先輩の家ではもう五年ほど蛍が生きているらしい。一体どんな技術を駆使しているんだろう。なんで蛍はすぐ死んでしまうのん、なんていっていた時代が懐かしく思える。
 だとすると、美少女化してしまったカマ娘も、やはり暖房など切らすと(今は温かいので心配は要らないが)いけないのだろうか。ファーブル先輩の返答を待つ。
『特に限定されないと思うけどなあ……実際まだまだ謎だらけだし』
「そうなんですか……」
 ファーブル先輩でも分からない事があるとは、正直言って驚いた。
『だけど、大丈夫』
 ファーブル先輩は、諭すような柔らかい口調で言う。


『虫を愛する気持ちがあれば、絶対に無断でいなくなったりしないよ』

 それだけ言い残して、先輩は電話を切った。

「……………………」
 僕は携帯をたたんで、パソコンの横に置く。ふと横に目をやると、おとなしく眠っているカマ娘の姿が視界に入る。すうすうと静かな寝息がパソコンの駆動音と混ざって、僕の聴覚を埋め尽くす。
 柱時計の、カチ、カチという音が妙に鼓膜に響いて、僕は時刻を確認した。
 現在、十四時。そう言えば、今日は妹の帰りが早かったはずだ。電車の時間も丁度良い頃合だから、もうすぐ帰ってくるかもしれない。カマキリが美少女になった、なんて言ったらどんな反応するだろうな。一応、メールしておこうか。

『帰ってきたらびっくり。あのカマ娘がなんと美少女になっていた・x・;<ホントダヨ なんでも擬人化症候群とか言うらしい(ファーブル先輩談)。早く帰ってくるんだ!!』

 これでよし、と。
 僕は妹からのメールを待ちながら、リビングの中を適当にうろつく。少し空気がこもっている感じがしたので、空気の入れ替えにと窓を開ける。爽やかな風が入ってくる。心地良い。だけどすぐ近くにある電線にとまっている三匹のカラスがこちらを凝視している。なんだよお前らこっち見んなよ。この三羽烏。
 とか、何とか呟いていると携帯の着信音が鳴る。妹からだ。どれどれ?

『とりあえず、切符買うの忘れてたから駅まで来て><』
 何ですと。


     ○

「お前なあ……切符ぐらい確認しとけよ」
「しょうがないじゃん、急いでたんだからさあ」
 家から十分ちょっとの駅まで妹を迎えに行き、帰り道。どうやら切符代を払う金もなかったみたいで、改札口の前で立ち往生していたらしい。僕がメールしなければどうする気だったんだろうか。真面目な妹なので、こういうことは珍しい。うっかりなところが可愛い。言っておくがシスコンでもない。と、言うと嘘になるのかな?
「それで、カマ娘が美少女になってたっていうのは本当なの?」
「ん? ああ、本当だけど…………疑わないのか?」
 僕がそう答えると妹は口元を吊り上げて笑う。
「あにいの証言だけだとわからないけど、ファーブル先輩が言うならね」
「なるほどう」
 それについては僕も同感だ。僕が妹の立場だったら、どんな奇天烈な発言でもソースがファーブル先生ならすぐに信用してしまう。それくらい博識で人望のある人なのだ、ファーブル先輩は。
「だからさ、早く帰ろうよ! どんな風になってるのか見てみたいし!」
 妹に右手を握られて、大して時間のかからない帰り道を僕らは走り出した。
 火傷を負っていたはずの右手は、もう痛くなくなっていた。


 程なくして、僕らは下宿へと辿り着いた。階段をあがって扉の前まで着くと、ズボンのポケットを弄って鍵を取りだ…………せない。硬貨やレシートがいっぱい入っていてなかなか鍵が見つからない。その間は妹と他愛のない会話を繰り広げることにしよう。
「カマ娘さ、一体どんな姿してると思う?」
「えー? うーん…………触角が生えててー」
「ほう」
「髪は緑色なんだけど碧眼で上下はなぜか制服で身長は130センチ程度と見た!」
 なんという洞察力。
「すごいな、大体当たってるぞ」
「ほんと? 私の希望する妹の特徴を述べただけなのに」
 そうなると、僕に恩返しじゃなくてカマ娘は妹に恩返しをしたんじゃないのかな?
 と、妹にも聞いてみる。
「いやでも、カマ娘の世話をしてたのはあにいだからねぇ。恩返しに来るならあにいだと思うよ」
「そうかなあ」
 ズボンのポケットを漁りながら、曖昧に考える。右のポケットじゃなかったか。だとすると左か。いや、後ろもありえるな。もしかしたら…………服のポケットかもしれない。
「そう考えると、やっぱり虫も私たちのこととか考えたりするんだねー、わふぅ」
 妹があくびをしながら呟く。うん、それについては同感である。虫には感情なんてない、という人がいるが、そんな事はとんでもない。全ての動物、言うなれば植物含む全ての生き物にはそれぞれ独自の意識がある。もちろん虫も然り。たとえ虫と言えど、大事に大事に可愛がればいつか振り向いてくれるときが来るのだ。僕はそれを信条に、今までこうして生きてきた。そして鍵は結局財布に入れていた。

 努力を重ねれば、いつか報われる。
 報われなくても、何か、は絶対に得られる。

 本当に臭いようだけど、僕は今までそうやって生きてきた。人に馬鹿にされたって構わない。大学もほとんど行けてなくて人生を棒にふったような奴だけど、それだけは譲れない。これは、僕の人生を簡潔に表したと言っても良い。……ただ、報われたことは、まだ一度しかない。
 それは何か? 言うまでもない。カマ娘が――――美少女になって僕の前に現れてくれたことだ。
 あの時は驚きのあまり何も考えられなかったが、今思ってみれば、とても嬉しいことだった。漫画家に例えれば、自分の書いたキャラクターが現実に出てきてくれたようなものである。母親に例えれば、反抗ばかりしていた子どもが、母の日にそっと枕元にプレゼントを置いてくれていたようなものである。涙が溢れ出ても、おかしくなかった。泣きじゃくっても、おかしくなかった。
 僕はゆっくりと、部屋の扉を開ける。爽やかな風が、吹いている。
 僕の努力も、ようやく報われるときが来た。心の底からそう思った。







 ――だけど。



 神様っていうのは、いじわるだ。







「……………………風?」
 妙な違和感を覚えた。どうして、部屋の中から風が吹いているのだろうか。この部屋は別に吹き通しではないので、空気の流れが出来ている、というのはおかしい。まだ扇風機も設置していないはずなので、風が吹くはずがないのだ。吹くとすれば、窓を…………

「……………………!!」

 脳裏を嫌な予感が過った。窓が、開いている。そう言えば、家を出るときに、窓は閉めなかった。すぐ帰るから良いだろうと、開けっ放しにしていた。すぐ、帰るからと。…………間違いだった。あの時、僕はしっかりと見ていたはずだ。
 窓の外の電線にとまっていた、三羽のカラスを。
 この辺りのカラスは、非常にたちが悪い。窓を開けてそのままにしておくと、いつの間にか部屋に入ってきてテーブルの上においてある菓子や果物をさらっていくのだ。もちろん、虫には二重の虫かごという頑丈なガードを施してあるから、危険はない。

 かごの中に入ってさえ、すれば。
 僕が外に出る時、カマ娘はかごに入っていなかった。

 心臓の鼓動が、急激に加速する。
 どうしよう、もしもカマ娘が人間の姿のままでいたなら良いのだが……こういうときの僕の悪い予感というものは、辛くも大体当たってしまう。こんな時だけではないが、自分の考察力を踏みにじりたくなった。
 頼む、頼む。切実に願いながら、玄関の扉を開ける。ここからはリビングの様子は半分しか見えない。しかし、窓が開いているのが分かる。カラスはいない。そして、部屋が激しく荒らされているのが分かる。
「う、嘘だろ…………」
 信じたくない。真っ白なキャンパスを塗り潰すように、目の前に広がる光景をなかったことにしてしまいたくなった。
 部屋が、荒らされている。それだけならまだいい。どうとでも片付けは出来る。問題は…………カマ娘が無事なのかどうかだ。カマ娘と出会ってからは、もうすぐ一年が経つ。全体的に寿命が短い虫という種族の中では、カマ娘はかなり長い付き合いだった。だから、カマ娘に対する気持ちも並大抵のものじゃない。ましてや、僕に恩返しをするためなのか、人間として現実に現れてくれたことを含めると、尚更だ。
 僕は初めて現実のカマ娘と出会ったときよりも急いで靴を脱ぎ散らかし、リビングへと向かう。ここからはカマ娘の寝ていた場所は見えないので、もしかしたら、という希望も立ててみる。

 カマ娘は、僕が大切に育ててきた虫だ。
 だからこそ何事にも手を抜かず、わが子のように育てていくと決めた。
 カマ娘は、僕が守らなければならなかった。


 僕が、ほんの、一瞬だけ。気を抜いてしまった、ばっかりに。

 カマ娘は。








 リビングに、人の気配はない。
 カマ娘の寝ていた場所には、なにもいない。


「…………あ………………」
 途端、息が詰まった。
 目がどんどん渇いていって、ひたすらに瞬きを繰り返す。現実を見たくないと、本能的に身体がそうするように。眼前の光景が瞬きの所為で、古いモノクロフィルムのように断片的に僕の視界に映し出される。
 そのフィルムの内容は、あまりにも残酷だった。
「うそ……」
 カマ娘のいない虫かごと、僕一人だけだ立ち尽くすリビングを交互に見て、妹が震えた声で呟く。僕は何も出来ないまま、床に膝を突いてへたり込む。嘘だろ。嘘だと、言って、くれ。お願いだ。
 もう一度、カマ娘の虫かごを見てみる。何もいない。他の虫かごも見てみる。カマキリはどこにも、入っていない。リビングを見渡してみる。どこにもカマ娘の気配はない。窓の方を見てみる。電線にとまった三羽のカラスが、僕を嘲るように視線を送っている。





 この部屋に、カマ娘はいない。




 僕の。
 僕のせい。
 僕の、せいで、カマ娘は。
 大切に。大切に。
 大切に育ててきた、あのカマ娘は







 ここには、もういない。


「う…………ああ……」
 口が大きくへの字に歪んだ。両頬を、悲しみの滴が伝うのが分かる。幾重となく流してきたものよりも、ずっと、ずっと価値の重い滴が、じっとりと僕の顔を濡らす。
 壁にかけてある柱時計が、カチ、カチ、と音を鳴らす。
 価値、価値。
 僕のとっての、カマ娘の価値。
 僕にとってカマ娘とはなんだったのかと問うように、価値、価値。時計は、僕に訊く。

 そんな事は、答えることがもはや愚問だ。
 僕にとっての、カマ娘。










 ――――宝物。



「――うわああああああああああああっ!!」

 僕は泣きじゃくった。大声で泣きじゃくった。妹がいるのも、窓が開けっ放しになっているのも関係無しに、思いの限り泣き叫んだ。自分の大切な宝物が、僕の、僕の不注意で、え、えいえ、永遠に失われてしまった。うそだ、うそだ。嫌だ、そんなの絶対に嫌だあああっ!!

「ああああ…………嫌だああっ!!」
「あ……あにい!!」

 頭を抱えて"涙"を流す僕の肩を、妹が握る。その声は、顔を見なくても悲しみに溢れていた。
 たかが虫、と人は言うかも知れない。ならば問い詰めたい。もしもあなたの子どもがふと目を離した瞬間に殺されたら、あなたは一体どう思う? 悲しまずにいられるのか? いられるのだとしたら、あなたは人じゃない。
 どんな形であろうと、宝物は宝物なのだ。その対象が子どもでも、親でも、ペットでも、家でも、お金でも、名誉でも。僕のように――――たった一匹の虫でも。宝物の価値は、同等だ。
 その人が宝物だと思うのならば、それの価値は他の何にも負けることはないだろう。
 他の、何にも。誰が、なんと言おうとも。
 宝物は、宝物。
「そんな…………そんな………………!!」
 なんと謝辞を述べて良いかも分からなかった。誰にも合わせる顔がなかった。カマ娘に関係のある人ない人関係ない。自分の宝物さえ守ることの出来なかった僕は、最低の人間だ。
 もう二度と、カマ娘の姿を見ることは出来ない。
 少女の姿のカマ娘どころか、ありのままの姿のカマ娘でさえも。
 僕は、守れなかった。たとえ、これが神様のいじわるであろうとも、守れなかった。



 本当に、神様はいじわるだ。
 本当に――――












「ご主人……様?」



 ――――――やっぱり、神様はいじわるだ。








 顔を上げた僕の視界に飛び込んできたのは。
 押入れからひょっこりと顔をのぞかせている、カマ娘の姿。


     ○

「……ってことは、カマ娘ちゃんはあにいを驚かせようと押入れに隠れてたの?」
「はい、そうです」
 人生最大級のドッキリだよ。
「じゃあ、カラスにさらわれたわけじゃなかったんだ」
「はい。カラスの危険さは身をもって覚えてます」
 確かにそうだね。はじめてあったとき襲われかけてたもんね。
「よかったねー」
「よかったですー」
 本当に良かった…………
「ところで…………あにい?」



「ううう…………カマ娘ぉ…………無事で良かったぁ…………」
 僕は涙を滂沱と流しながら、膝立ちでカマ娘にすがり付いていた。本当に、本当に、無事でよかった。
 押入れからカマ娘の顔が見えた瞬間は、心のダムが決壊して更に涙が溢れた。今度は悲し涙ではない。れっきとした、嬉し涙だ。だぼだぼだぼ。
「だーめだこりゃ」
 妹の呆れた声が聞こえる。この野郎、もしかしたらカマ娘は本当にいなくなってたかもしれないって言うのに、なんて薄情な女だ。今度痛い目にあわせてやる!

「大丈夫ですよご主人様。私は勝手にいなくなるなんてことはありませんから」

 カマ娘に頭を撫でられる。至福の一時。つい数時間前とはまったく逆の状態だ。

 そしてカマ娘の言葉を聞いて、ある人の台詞を思い出した。



『虫を愛する気持ちがあれば、絶対に無断でいなくなったりしないよ』




 ああ――――やっぱり。
 ファーブル先輩は天才なんだなあ、と今一度思った。




「それでご主人様」
「うん?」
 涙を拭って顔を赤くしながら、僕はカマ娘の言葉に応じる。



 ――――瞬間に察知。


 顔の距離が近い。
 ちなみに、僕の顔は赤い。







 これなんてデジャビュ。

「火傷大丈夫ですか?」
「いや、これは火傷じゃな「大変です! すぐに治療しなければ!」
 な、なんだってー。
「今度こそ……誓いの口付けを!」
 来ると思ったぁぁぁぁ!!
「だぁからそれはだめだってぇぇ!!」
「そうじゃないと、私勝手にどこか行ったりしちゃいますからね!」
「えぇ!?」
 これは本人公認の逃避行。ファーブル先輩の名言に則ると、これはヤバイ。
「ちょ、ちょっと待ってくれ! まだ適齢期というものをカマ娘は」
「いいじゃないあにい。口付けぐらいしてあげれば?」
「何ぃっ!?」
 おかしそうに笑う我が妹。他人事だと思った楽しんでるなこの野郎!
「さあ、ご主人様。私と口付けを! でなければ他の方としてしまいますよ!」
「それは困る!」
「ならば誓いの口付けを!」
「それも困る!」
「何も聞こえません!」
「ちょーーーっと待てぇぇぇぇ!!」




 ああ、やっぱりこうなるのか。
 もう、何度目かも分からない。平和でありたいのに、どうしてこんなにも。

 とりあえず、今の僕が出来ること。


「さあご主人様、私に口付けを!」
「ついでにあにい、私にも口付けを!」
「何でそうなるんだぁぁぁ!?」






 僕は、驚愕した。




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