――――友情は多くは見せかけであり、恋は多くの愚かさにすぎない。 (シェイクスピア) 「そっか。あの子元に戻っちゃったんだ」 「約束、違うよね?」 すっかり日の落ちた夜の町の一角。 小さな家のベランダで、二人の影が会話していた。 体の大きい方の一人は手すりに体を預け、手に持つ清涼飲料水のボトルを時折あおぐ。 それより小さい方のもう一人は、そのベランダを地上から見上げていた。 外灯の弱々しい光に照らされているその影は、限りなくおかっぱに近い黒髪ボブの女の子である。 両手を腰に当てている彼女は、少しイライラしているように声を荒げた。 「人形みたいになってくれてて、清々してたのに。どうしてくれるの」 「俺のせいじゃない。俺は何もしてないぜ」 低い声で返すベランダ上の影は、恐らく男だろう。 彼はつまらなそうに笑った。 「お前、見てたんだろ」 「うん。みりんのクラスメートってやつが家に来てた」 「なら、そいつのせいだろ」 男は悪びれること無く、さも当然のようにボトルを飲み干して言った。 「俺にも見当はついてるさ。いや、むしろ灯台もと暗しを実践してると言えるかもな」 意味の分からないことを言って誤魔化さないで、と階下の女の子が気味悪く笑う男に怒鳴る。 「あんたが協力してくれるっていうから頼んだんだよ」 「わかってる。お互いの利害が一致したことはよーくわかってるさ」 飲み終えたボトルを手すりの端に置いて、男は身を乗り出して彼女を見下ろす。 「……っ」 鋭く光る彼の眼光に、女の子は思わず息を飲んだ。 どこか、人間離れしているような視線が彼女を捕えていく。 こうしてこの男と会うのはもう3度目だが、どうしても慣れることの出来ない感覚が体の中から湧き上がり――――そして収まっていった。 男は女の子を指さして笑う。 「またその格好か。おねーちゃんとは違うってアピールか?」 「うるさい! あんたには関係ない!」 雲の合間から顔を出した月が彼女を照らしていた。 上半身は、ピンクと白の横じまセーター。 下半身は、深海魚が泳げそうなくすんだミッドナイトブルーのズボン。 女の子の格好としては、どこか簡素な印象を持ってしまう服装である。 そんな服装で、彼女は男をきっと睨みつけた。 「あたしはただ、みりんが嫌いなの」 幼さが残りつつも、顔立ちは少しづつ大人に――――中学二年生にしては随分綺麗になったもんだと男は心の中で笑った。 その顔を冷たく怒りに染めてはいるが、彼女はやはり瞳に映る怯えは隠せていないようである。 まだまだ手にとるように扱えることに喜びを感じつつ、彼は階下の悩ましき女の子に言った。 「みりんが憎いか? まりん」 真凛(まりん)と呼ばれた女の子は視線を外さぬまま、少し間を置いて、はっきりと答える。 「だいっきらい」 さほど大きな声ではなかったが、静かな夜の街にその声は恐ろしくよく響いた。 男はその残響を聞きながら、やはり口の端を吊り上げていく。 こんな無垢な女の子の中に、一体どれほどの憎しみが詰まっているのだろうか。 それを考えただけで、もう体の奥がゾクゾクと震え始めるのだ。 そして、彼はそんな真凛の憎しみを受け止め、さらに発破をかける。 「よし。よし。それでいい。お前はその憎しみをさらに増やせ」 「増やしてどうなるっていうの」 「俺が、お前の夢をかなえてやるさ」 その言葉を聞いて、真凛は顔を少しほころばせた。 その顔自体は無邪気でまだあどけない所がある。 だが、それもすぐに邪気で満ちていくだろう。 男は確信し、そして満足して、ふところから紙を取り出した。 それを少し折って、真凛の元へ軽く放る。 紙は、意志を持ったように彼女の胸元へ着地した。 紙を手に持って首をかしげる真凛に、男は告げる。 「これから毎日、みりんへの憎しみをそこに込めろ。それだけでいい」 「そんなので、いいの?」 藁人形でも持ち出すのかと思っていたのだろうか。 拍子抜けした顔で見上げてくる真凛に、男は笑って答えた。 「あぁ、それで十分だ」 「……わかった」 それだけ言って、あいさつもせず無言で真凛はベランダの下から闇に消えた。 残された男は、ただただ笑い続けていたのだった。